古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第209話 2009/01/01公開 |
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■ およそひとの世において、個性的であることは、没個性的であることよりも良いことだと思われるところだが、ひときわに個性が強いとされる芸術家たちも、趣向の合った仲間を見つけては、影響しあい刺激しあって、よりいいもの創り出そうとか、より面白いことをしてみようとすることを、好むものである。
そして、同時代的に影響しあい、その時代ならではの精神性に溢れた、すばらしい創作物を産み出したりする。 たとえば、19世紀を見たならば、印象派があった。 たいへんに個性の強い多数の画家たちが、互いに刺激を与え合いつつ、絵画芸術における華々しい頂点のひとつを形成した。
また、影響を与えるということについては、「師弟」という関係がある。 14-16世紀のルネサンスにおいては、師弟関係を伴う工房で育てられたのちに活躍をして、珠玉の作品を残した巨匠たちが多く存在する。
さて、影響の仕方ということでは、これらのほかに 「私淑(ししゅく)」というスタイルがある。
私淑とは、紀元前4世紀の儒学者、孟子(もうし)の言葉である。
自分は100年前のひとであった孔子(こうし)の門人になって教えを受けることはできないが、個人的にその道について知り、それを善いものとして積極的に学んだという意味の、「予(われ)未(いま)だ孔子の徒たるを得ざりしも、予、私(ひそ)かに、諸(その道)をひとに(聞きて)淑(善)くするなり」から出ている。
つまり私淑とは、既に故人であるとか、遠方にあって面識がないなどの理由により、直接的に教えを受けないものの、ひそかにそのひとを師と考えて尊敬し、規範として学ぶことをいう。
現代のように出版物や放送メディアが発達し、さらには、20世紀の終盤からインターネットというハイテク・メディアが加わったこんにちの環境においては、工房などにおいて徒弟式に鍛えられることや、とにもかくにも一派を形成して活動を広めるなどの方法よりも、私淑はむしろ有力な影響のしあい方のようにも思われるところである。
これを言い換えたならば、わたしたちを取り巻くメディア環境が、ブロードバンドの普及などにより、21世紀において大きく変わったのであるから、そうした中から新たに有力な影響のしあい方法が生まれて来ないことのほうが、これまでひとの歴史が示してきた進歩における道理に、あわないように思えるということになるだろう。
さて、ハイテク技術は必然的に私淑を推進するという説を述べたところではあるが、私淑という言葉自体が、出版さえなかった紀元前4世紀にできたものであるように、私淑をするにあたっては、必ずしもハイテク技術を必要とするわけではない。
また現代のように、世界に美術館が多数存在し、料金を払えば誰でも入場可能な展覧会が常に幾多と開催されていて、また、展示される芸術作品についても世界を巡回するような仕組みがあることは、また、私淑を推進させ得るものであるところだが、そういった仕組みが存在していなかった江戸時代(17-19世紀)において、およそ100年ごとに2度、並外れて優れた私淑が行われた。
100年に1度だけなら、そうしたリバイバルもあろうことだというところだが、100年ごとに2度連続であったということには、その内容に只ならぬ価値があったからこそと思われるところである。 その優れた私淑が行われたのは、「琳派(りんぱ)」においてあった。
琳派の祖は、俵屋宗達(たわらや
そうたつ)である。
俵屋宗達は桃山時代に生まれて、江戸時代初期に活躍した大画家である。 代表的作品には、桃山時代的な絢爛さを引き継ぎつつ、独特の躍動感を持つ筆致でもって、自然信仰の深遠なる動機をみごとに描き出した『風神雷神図屏風(ふうじんらいじんずびょうぶ)』(17世紀/国宝)がある。
その俵屋宗達に私淑したのが、100年後の画家、尾形光琳(おがた
こうりん 1658-1716)であった。
宗達の『風神雷神図屏風』を消化した上、文学の要素を盛り込み、また、明快なデザイン・センスを展開させた『紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)』(18世紀/国宝)は、尾形光琳の代表的作品である。
なお、明快な意匠の一方で、尾形光琳の作品には、ひとを唸らせるような細部に渡った念の入れようというものがあり、当時のコレクターの収集意欲も大いに掻き立てたことであろう。
歴史におけるひとつの優れた個性としての存在であった宗達の流儀を、江戸時代中期においてリバイバルさせ、屏風や掛け軸をはじめ、扇(おうぎ)や香包(こうづつみ)といった日用品にも渡る大々的な活動を展開させた美術家、尾形光琳は、琳派という呼称が、光琳の一字を取っていることに表れるように、琳派が琳派として成立したことにおいて、たいへんな重要人物である。
さて、その光琳から100年というと19世紀、江戸時代も後期となる。
いい仕事をする芸術家は、時代の意識というものを端的に、その作品の中に固着させるものである。 琳派200年を見ても、宗達の作品からは17世紀のなにかを感じられるところであるし、光琳からは18世紀の意識のなにかを感じ取れよう。
琳派にはもともと、近代感覚を先取りているようなところがあるのではあるが、19世紀初頭に行われた尾形光琳に対する、酒井抱一(さかい
ほういつ)によった私淑の成果は、じつに近代感覚に溢れたものになった... 続き/Page
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酒井抱一 (1761-1828) 『風雨草花図(ふううそうかず)』
(通称『夏秋草図屏風(なつあきくさずびょうぶ)』)
1821年頃 2曲1双 紙本銀地着色 各隻167×184cm 重要文化財
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この作品は、酒井抱一の代表的作品、『風雨草花図』である。 渋さを漂わせる銀色の地の上に、自然の草花が描かれている。
右隻(うせき)に描かれているのは、青薄(あおすすき)、白百合(しらゆり)、仙翁花(せんのうけ)、女郎花(おみなえし)など、夏の草花である。 また、右上には鮮やかな青で流水が描かれている。
左隻(させき)に描かれているのは、薄の穂(すすきのほ)、葛(くず)、蔦紅葉(つたもみじ)など、秋の草花である。 どちらも写実的でありつつ、どことなく可憐さを帯びた筆遣いで、美しさと、そして余情感を漂わせている。 ひとは、この余情感の存在に、いったん気がついたならば、いったいそれはなぜなのだろうかと、想わずにはいられなくなる。
じつは、酒井抱一によるこの屏風絵は、尾形光琳が、100年前の俵屋宗達のそれにならって描いた『風神雷神図屏風』の裏面に描かれたものであったのである。 つまり抱一の『風雨草花図』の夏草と流水が描かれた右隻の反対側の面には、抱一から100年前の光琳の「雷神」があったのである。 そして、左隻の反対側の面には、「風神」があったのだ。
余情のわけは、このみごとなる照応にあったのだ。
夏草花がしだれている感じであって、流水も描かれているのは、雷雨によったもの、そして、秋の草花が、なびいている感じは、大風によるものなのである。
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柳澤 徹 ドローイング 2006・4 #59
ピットチャコール(成型木炭)および木炭
クロッキー用紙 B3 51×35cm 5分 とおる美術館
所蔵
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● 琳派の作品においては、草木がモチーフになることが多くあるが、それらを擬人化して、人間の生における情感や情緒を表していることが、しばしばあり、それが作品にたいへんな深みと、共感性を生み出して、琳派の魅力のひとつとなっている。
よく知られているところでは、尾形光琳の『紅白梅図屏風』の2本の梅の木には、人間の生を象徴的に見出せるし、列伝本文で掲載した酒井抱一の『風雨草花図』においても、個や個性の意識を伴うかなりの近代感覚でもって、草花は擬人化されている。
雷雨や大風によって翻弄される様子とは、今日はじまった2009年のイメージと重なるところかもしれないが、そのような見通しがあるときでも、あるいはあるときにこそ、わたしたち人類の生きる力が、ものごとを好転させるように発揮されることを願って、このドローイングを掲載する。
5分の時間で描いたものなのだが、背筋は自然体で伸び、胴体を形作る肋骨(ろっこつ)の感じも表現され、「意気」があるのではないだろうか。 なお聞くところによると、雷神は「へそ」を取るそうだが、画家はしっかりと描き入れるのである。 |
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