古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第229話 2015/05/26公開 |
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イサーク・アルベニス
スペイン組曲から「セビリア」
Isaac Manuel Francisco Albeniz y Pascual
Sevilla
- Suite Espanola, Op.47 |
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■ 普段は無口で、ものを多くは語らず、自分が思うそれらしい役割を、まるで黙々といってもいいくらいに行っている、クールな都会人たちも、気候が良くなり、気温が上がってくると、なにやかにやと背負い込んでいたものを、ひとまずどこかに置いておき、なにかに熱中してみたいと考えるものである。
そのような時節に、やってきてくれるのが、みんな喜ぶ、たとえば、夏祭りだ。
うねりであるかのように感じられる太鼓が、響いているだろうか。 そうでなかったとしても、躍動的な音楽が流れているだろう。
肌に熱気を、リアルに感じさせるために、注ぐかのごとくの、陽の光が溢れる昼間ならば、ひとびとの乾いたざわめきが、幾分陽気で、やや大らかな気持ちを、引き起こしていく。
たとえ湿り気を帯びていたとしても、それさえ吹いてくれれば、上々の爽やかさがやってくる夕辺ごろから、空に華々しくも、次々と打ち上がる花火は、その閃光の刹那ごとに、異なった情感を、盛大に創り出し、そして余韻を残していく。
さて、ヨーロッパのピレネー山脈を越えてそこにあるのは、スペインである。 情熱の国だ。
情熱というと、燃えやすいというイメージがあるかもしれない。 しかし、そこに住むひとびとは、感受性が高く、スペインの情熱のイメージは、燃焼ということよりは、なにかのものごとの核心を目指して、突き進んでいく、エネルギーのありかたや、姿勢のように思われる。
それは、ひとびとが生み出してきた芸術に表れている。
そこには、独特の余韻があるのである。
核心を突こうとするエネルギーが、それを突いたあとで、ひとの感動へと醸成される行程のためにともいったら良いだろうか、そのための間(ま)が、用意されている。
この感じが、分かる名曲がある。 アルベニス作曲のスペイン組曲から、セビリアだ。 ピアノ演奏用に作曲されたものだが、のちにギター演奏用に編曲されているので、今日は、そちらを聴いてみよう。
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イサーク・アルベニス(1860-1909)作曲
スペイン組曲 作品47から 「セビリア」
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快活なメロディーが、曲の冒頭から流れる。 その音の明朗さは、あたかも溢れる陽の光のようであり、たいへん心地が良い。 心地よさの核心といったものを、突いているのではないだろうか。
もしこれが、たとえばエーゲ海方面のフォーク・ミュージックであれば、その陽気さのまま、曲が一曲ができていたりもすることがあり、それはそれで楽しいのであるが、スペインの音楽では、すこし違う。
陽の光が注ぐところでは、それが強いほど、陽の影もくっきりすることを認知して、芸術作品の中に、構成要素として取り込む。
アルベニスも、この曲セビリアで、溢れる陽の光のメロディーのあとに、陽の影の情緒を含む旋律を、加えている。
音楽が、溢れる陽の光だと感られるのは、それがまさにそのように明るいからであるが、この影の表現が加わることによって、明るさが増してさえいるように思われる。
この主旋律は、さまざまに変奏されていく。
そして、曲がはじまって、2分ほど経過したあたりで一転、エレジーの様相になるが、ここには音楽の、間合いや余韻が、ふんだんに盛り込まれていて、味わい深いところだ。
その後再び、陽光のフレーズが、現れはじめる。
そして、それが、溢れていく。
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(C)
柳澤 徹 東京・世田谷 2014・10 #1 帰真園にて 写真
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● 東京の世田谷にある、帰真園(きしんえん)は、2013年にできた、平成時代の日本式庭園である。 多摩川と富士山と国分寺崖線を、主題に据えて、ひとのこころが捉えるところの美が、具現化されたものである。 同じく世田谷にある、等々力渓谷が、ひとが介在しなくても在りえる、自然美の世界であるのと、対照的に、ひとのこころの美の世界である。
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