古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第191話 2007/06/01公開 |
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■ ひとびとを取り巻く状況や環境とは、抱く価値意識や、その反映でもある実行動に、影響を与える。 その影響の力が、いかに大きいかに至っては、それから派生した価値意識や実行動を、「それが普通でしょ?」とか、「当たり前なのでは?」などと、一般的であることを指し示すこと、すなわち「常識」というレベルにまで押し上げることが、可能なほどである。
だが、昨日と極端には変わらないであろう今日の行動の、よりどころでもある「常識」とは、「ものごとの真理」や「人類普遍的な価値」から、いつの間にやら乖離をしてしまうこともあり得るので、その「常識」を形成する状況や特定の環境自体が、世界的視野からしては狭いものであればあるほどに、また、歴史的視野からは刹那的なものであればあるほどに、わたしたちは明察をもって、接しなければならないだろう。
さて、スペイン生まれの20世紀の画家、サルバドール・ダリの絵画作品は、ご存知のことと思う。 それは、しばしば遠くまで見渡せる平野の風景の構図の中に、とろけて流れ出したようなたようなモチーフや、引っ張って伸ばされた対象が、まるで
17世紀のオランダ絵画のようであるかの重みと精緻さの、みごとな筆致でもって描かれている作品たちのことである。
ご覧いただいたのは、サルバドール・ダリの、代表的作品のひとつである。
遠景に静かな湖を持った開けた平野の風景。 そして、その近景に描かれているのは、とろけている時計、ひとつは木に掛けられた洗濯物のように、ひとつは台座のようなものからはみ出した半分が溶け出したように、そしてもうひとつの時計は、長いまつげを持ち、その体長からすれば、極端に大きい閉じられた目がある、ちょっと見では鳥類のようなシェイプをして、横たわっているかの生き物の上で溶けて、ペタリとしている。
そして、これら背景もモチーフたちも、実に精緻な筆でもって描かれていることには注目だ。 その結果として、揺るぎのない確固さといったものが、この表現世界にもたらされていて、絵画的な説得力を、大いに獲得している。
さて、サルバドール・ダリのこの作品の中に描かれているものたちが、それぞれ具体的に何を表していたのかについては、後日の画家自身の言や、書き残したものから特定される部分もあり、たいへん興味深いところである。
だが、このとき20代の後半にあって、自らが進むべき成功の道はシュルレアリスムにありと、ダリが確信し得ていた芸術運動
シュルレアリスム自体が、描き手の個人的な体験を表現することよりも、人間にとっての普遍的な事象といったものを表現していくことに重きを置いていたことを考慮すれば、また、まだ100年も経ってはいない時代の作品ということも考慮にすれば、こんにちのわたしたちは、自分の素直な感覚にて、作品を捉えていって良いようにも思われる。
このように言うのは、ダリの芸術表現の源泉が、本列伝の冒頭にてお話したところの、「ものごとの真理」、「人類普遍的な価値」、そして、いわゆる「常識」との、「関連性」に根ざしたものであるからである。
ここで、15-16世紀、ルネサンス期の巨匠、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)や
ミケランジェロ(1475-1564)の作品を、思い起こしてみよう。 その芸術には、至高を目指す動機といったものがあり、作品それ自体が、「ものごとの真理」、「人類普遍的な価値」のうちの何かを表現しようとするものであることには、ご同意いただけることと思う。
これに対して、20世紀のダリの場合は、「ものごとの真理」や、「人類普遍的な価値」自体を、絵画表現することを目的や目標にしていたわけではなく、それらと、「常識」とされるものとの「関連性」ということを、芸術表現における目的や目標にしているのである。 ダリは、それらの間における同一性の部分は極めて同一に、そして、相違性の部分はより明らかになるように、絵の描き込みをしていったのだ。
このように相互間の「関連性」ということ自体が、芸術なのであるのだから、ダリ作品を より感動的に味わうためコツは、相互関係の片いっぽうでしかない「常識」から派生することが多い
先入観や偏見といったものを、持つことなく接することなのである。
それにしても、サルバドール・ダリの、精緻な描画の技術は、驚嘆に値するものであるが、これにも増し、こんにちそれらを鑑賞し得る
わたしたちに、多大な価値をもたらし、そうした天才ぶりを賞賛したくなる事柄がある。
「ものごとの真理」、「人類普遍的な価値」と、「常識」、これらの間の「関連性」ということを、芸術の域へと、し得るためには、そもそも、「ものごとの真理」、「人類普遍的な価値」、「常識」ということそれぞれについて、通じていなければならない。
知るためには、明晰な洞察力が必要とされるところではあろうものの、「ものごとの真理」、「人類普遍的な価値」とは、基本的に変化をして行かないものである。 その一方で、「常識」とは、どんどんと変化をして行くものである。
よって、「関連性」を芸術表現し得たダリは、作品制作の時期ごとに、変化し異なっていただろう「常識」を、理解・把握することにおいて、天才的能力があったわけである。
サルバドール・ダリが行った芸術活動の軌跡を、年代ごとによく吟味していくという楽しみは、それぞれの年代において、世のひとびとが抱いていたであろう、移ろい行く「常識」を、感じ味わうということでもあるのだ。
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(C) 柳澤 徹 トルコ 2000・11 #10
『カッパドキア/ギョレメ野外博物館にて』 写真
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波のようにうねる地面、視界のそこここに、そそり立つ奇怪な岩石たち。
右手前にある茶色のものは、木組みテーブル・腰掛のセットで、その向こう側には木々が並ぶ。 これとのスケールの比較をしたならば、見える岩々は相当な大きさである。 そして、そこには、大きな穴などが穿たれ、それが顔ででもあるかのようにも見える。
これは筆者が撮影した写真である。 画像に特殊なうねりの加工をしたのでもなく、また、岩の穴を描きこんだのでもなく、現実に、何かの生き物がとろけたようなこの場所が、この世に存在するのである。 北半球の反対側では、今日も、同じような様子にて、来訪者を迎えている。
ここはトルコ中部、カッパドキア地方にある「ギョレメ野外博物館」の一角。 カッパドキアの土地は、広範囲に渡って火山灰の堆積したものであって、この常識破りの奇怪な景観は、雨風によって侵食されたもの。 遥かな時をかけてのことではあったが、岩がとろけた場所であるとも捉えられよう。
大きな穴は、かつてここに住み着いたひとたちが、必要に応じて、穿ったものである。
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