古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第177話 2006/04/21公開 |
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芸術家
レオナルド・ダ・ヴィンチ 画家・彫刻家・科学者
名画 最後の晩餐 |
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■ ミケランジェロを知らないというひとがいたとしても、レオナルド・ダ・ヴィンチを知らないというひとは、とても
まれであろう...
レオナルド・ダ・ヴィンチ。 今から5世紀ほど前、イタリア・ルネサンスの時代に活躍した芸術家である。
フィレンツェ近郊の「ヴィンチ村」で生まれた。 家は、レオナルドが少年のうちにフィレンツェへと移った。 フィレンツェでは、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂のあのみごとなドームが完成して遠くない時期にあたり、よいタイミングで当時の芸術の中心地へとやって来て、吸収と成長をしたことになる。 弁論に優れ、堂々としていて、歌もうまかったという。
やがて14歳のころ、美術界をリードしていたアンドレーア・デル・ヴェロッキオ(1435-88)のもとに弟子入りし、絵画、彫刻そして建築を中心に、多彩なことを学んだ。
1478年、26歳のころ独立をして、30歳になるころには、芸術家のパトロンであることで有名な、ミラノ公国の君主ロドヴィーコ・スフォルツァ(1451-1508)の宮廷画家となった。
ところで、21世紀においても、知らぬものがいない大芸術家、レオナルド・ダ・ヴィンチであるが、残した絵画作品の数は10点あまりと、思いのほか少ない。
じっくりとものごとを考え、時間をかけて制作することを好んだためで、結果として未完成のままとなった作品も多かった。 しかし、熟慮の積み重ねにより表現されたものとは、おのずと重みが生じているものであり、また、レオナルドの思考の深さとは、絵画作品としての完成に至らずとも、鑑賞者の心に
染み入ってくる。
かくも良く知られたこの作品も、そのことなど問題にならないほどの名画だが「未完成」である... 続き/Page
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レオナルド・ダ・ヴィンチ (1452-1519) 最後の晩餐
壁面にテンペラおよび油彩 420×910cm 1495-98年
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院 イタリア・ミラノ |
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ミラノ公国の、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の院長からの依頼により、同院の食堂に描かれた壁画である。
レオナルドの時代において壁画を描くというと、フレスコ画法といって、絵を描く壁面に漆喰(しっくい)を塗り、それが乾いてしまわないうちに水彩絵具で描き、壁と一体化させる方法が用いられるものだったが、レオナルドは時間をかけてじっくりと描くことを好んだため、自ら考案した手順でもって、乾いた壁面の上に、テンペラや油彩絵具で絵を描いていった。 ちなみに、壁の大きさは、横が9メートルを超える大きなものであった。
この作品を観ても、レオナルドというひとは、並々ならぬ思慮深さをもって構想をして、ものごとが持つ意味についても熟慮しただろうことが、理解できる。
正確な線遠近法と空気遠近法を用いて、食堂の壁面の向こうに、更に空間が続くかの構図を考えた。 そして、そこに食卓の一場面を展開させた。 壁画に何が描かれているのかは、すでにご存知と思うので、あらためては記さないが、この絵がそこにあることにより、修道僧たちは食事を摂るたびに、その意味を正しく感じ取り、その職責をまっとうしたことであろう。
ところで、この作品は、制作の開始から 3年の月日を経ても、なお完成に至らなかったが、仕事の依頼主の修道院長は、やはり完成を強く望んでいた。
そして、レオナルドが、ときには半日ものあいだ、絵の前でぼんやりと物思いにふけっていたりするのを目撃していて、それを怠けていると思い込んだ院長は、ミラノ公スフォルツァに苦情を述べた。
「あなたの宮廷画家に、筆を休ませることなく動かすように言って、早く絵を完成させて下さい」と。 その調子が、あまりにも強く、また執拗であったため、ミラノ公も仕方なく、レオナルドに対して、完成を慎重に促した。 そして「院長がしつこく言うので、このような催促をするのです」とも付け加えた。
すると、ミラノ公の頭のよさを知っていたレオナルドは、「このことを院長に話をしたことはないのですが」と前置きした上で、次のように述べた。
「わたしは、実際に手作業をしていないときにこそ、より多くの仕事をしているのです。 まず、頭のなかで創意して、完全な観念を作り上げてから、手を動かすことになるのです。
ところで壁画では、まだ2つの顔が描けていません。 ひとつはキリストの顔で、それにふさわしいほどの天上的な優雅さとはどのようなものであるかを、いまだに想像できないでいます。 もうひとつはユダの顔で、あれほどの悪行を実行しえた人物など、想像できないからです。
しかしなから、後者のほうは、たぶん大丈夫でしょう。 あまたの人間のなかから探せば、どこかでモデルになる顔が見つかりましょう。 でも、もし最後まで発見できなかったのなら、傲慢でわきまえのないあの院長の顔を思い出してみることにします」
ミラノ公は、「もっともなことです」と言って、大笑いをした。 あとで、この話を聞かされた修道院長は、以降、レオナルドを悩ませることはなくなったという。
顔のモデルがかの院長なのかは不明だが、ユダは描き上がった。 だが、キリストの顔は完成には至らなかった。
わたしたちは経験的に、もしぼんやりとしているひとがいたならば、多くの場合ぼんやりしているだけだということを知っています。 しかしながら、一見ぼんやりとしているような印象を持ちながらも、レオナルドのように創造的作業を行っているひとが少なからず存在するのは確かであります。
柔軟な思考と観察眼をお持ちの皆様ならば、その見分けがつくことと思いますが、いつの間にかに視野が狭くなっていたり、なにかに凝り固まってしまっていると、かの修道院長のように一時的な見誤りをすることもあるというのが、このお話の教訓でもあることでしょう。 それにしても、面白い話ですね! |
ところで、さても思慮の深いものではあるが、およそ10点あまりとされる数少ない絵画作品のみをもってして、レオナルド・ダ・ヴィンチが同時代的に、そして今日に至っても、その影響力を発揮し続けて来て、そしているのだろうか?
かの名画『モナ・リザ』に含蓄されていて、現われては移ろうことを繰り返す、レオナルドが人間のなかに発見しえたさまざまな思考を目撃したならば、そうだとも言えるだろう。
だが、大量に残されたすばらしい素描たち、そして、多方面に渡る考察の跡を記した手帳や、研究ノートの存在を知ったならば、そして目にする機会を得たならばいっそう、芸術家としてのほかに科学者とも呼ばれ、「万能の天才」とも言われる理由が、会得されてくる。
そんな手記たちの中でも、晩年になって記されたもので、レオナルドが行った、さまざまな方面についての研究・考察の成果の大集成となっているものがある。 水や地質に関する記述も多いもので、『レスター手稿』と呼ばれている。 現在は、米マイクロソフト社の創業者
ビル・ゲイツ氏(1955-)が所蔵している。
500年の歳月を経て、物質としての手稿の劣化が進んでおり、これ以上のそれは最小限に抑える目的で、1年間に1時期しか、光にも
ひとの目に触れることがない その手稿が、2005年、日本に来ていると聞いたので、会場の森アーツセンターギャラリーへと足を運び、拝見するところとなった。
紙にして18枚、綴じられたとしたならば左右表裏をあわせて、全72ページとなる、レオナルド直筆のノートである。
自分たちがその上で暮らしている地球のことを知るためには、太陽や月との関係を知らなければならないから 考えてみるといった、スケールの大きいテーマのものをはじめ、
川に架ける橋をよりよいものにすることを考えるならば、川のことを知らなければならない。 そして、溝の中を水がどんなふうにして流れるのか? そこに橋脚があったなら、それに当たって発生する水の渦がどのようなもので、どう影響するのものなのか? といった、
現代であれば日本人が、それを組織的かつ体系的に実行することを得意としている、イノベーション(技術革新)にあたる研究に至るまで、レオナルドは、およそ、世の中の重要なことについて理解をし尽くそうとした模様だ。
これらのレオナルドの考察を拝見していて、実にならではだと思えてくることは、検証アプローチの仕方だ。 ものごとを理解し、適切な観念を形作ることに成功したならば、それを図や素描といった視覚表現に変換していったのだ。
視覚とは、脳と密接に連動して認識行為や判別を行う、精緻なツールだ。 作り出した観念が正しかったならば、視覚的な存在である絵にしたときに、大きな説得力と伝達力を持ちえる。 だが、反対に、正しくないのであれば、絵は矛盾をはらんだ不明解なものになるだろう。 よって、図や素描にしてみるという行為は、自らが生み出した観念の検証作業を行えるという有益性も持ち合わせているのだ。
レオナルドの考察・検証は、当然のことならが、ひとにとって重要なことである「ひと自身」にも向かった。 そして、洞察力を駆使して得た成果は、すばらしい素描たちや、絵画作品として現存し、感嘆の対象となっている。
言うなれば、知り尽くしたい、知ったならば、そのことを明らかにしておきたい...それがレオナルドが積み重ねていった仕事だったとも考えられよう。 そして、こうした姿勢とは、自身の人生をより善く生きたいという気持ちとして、現代社会に暮らすわたしたちの心の中にも存在し、生きているものである... 続き/Page
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(C) 柳澤 徹 神奈川・横浜 2006・3 #1
横浜美術館近くの広い歩道 写真
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もっぱら、次に挙げる絵画の技法を使用して撮影した、写真作品です。
@手前のほうから画面中央に存在する消失点へと向かって引かれたことになる幾多の直線により奥行きを表現する「線遠近法」。
A観察者の手前のほうにあるものは克明に見え、遠くにあるものは、そこに至るまでに次第に増していく大気の厚みによって、しだいに霞んだようになるという自然界の様子に則った「空気遠近法」。
B画家のあいだでもあまり知られてはいませんが、レオナルドは無論知っていて、「最後の晩餐」においてもその効果が発揮されている秘技
「明暗遠近法」。
なお、芸術作品とは技巧のみで生成されるものではありません。 もしありがたくも「よい作品だ」と感じていただけているとしたならば、そこには作者の感性や思考といったものが、適切に含まれているからであります。 |
ここで、もうひとつ、人となりを感じさせる逸話をご紹介して、第177話を締めくくりたいと思う。
レオナルドは、しばしば、羊の腸を念入りに洗って薄くしたものを、手のひらに納まるようにしておき、隣室に用意しておいた鍛冶屋が仕事で使う「ふいご」から空気を送り込んで、膨らませた。 みるみる
それは部屋いっぱいへと広がって、居合わせたひとは、小さくならなければならなかった。
そして、はじめは小さかったのに、やがて大きな空間を占めることになった、透明な物体を指して、レオナルドは言うのだった。
「徳もまた、これと同じことです」