古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第176話 2006/03/24公開 |
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■ この世に生を受けた誰もに平等なのは、1日に24の「時間」である。
わたしたちが暮らす地球が、ひと回転するのに要するのが1日、それを便宜的に24分割したのが1時間。 この60分ある1時間という「物理的」な長さは、世界のどこにおいても等しく、誰にとっても平等に1時間である...
19世紀の終盤に、横浜で生まれたのはひとりの日本人。 青年になると、描画、彫り、そして摺りのすべてをひとりでこなす「創作版画家」として活動をはじめた。 やがて、その奥深き版画世界の技術を極めたいと思い、27歳の折、フランスに渡った。 以降、その地に根を下ろし、銅版画家として大成していく。 その人物とは、長谷川潔(はせがわきよし
1891-1980)。
これまでフランスの造幣局は、日本人画家を3人、肖像メダルにしたという。 江戸時代の画家・浮世絵師
葛飾北斎、 モディリアーニとも親交のあったエコール・ド・パリの画家 藤田嗣治(ふじたつぐはる 1886-1968)、そして長谷川潔である。
● 長谷川潔の銅版画作品 銅版画技法のひとつマニエール・ノワール(メゾチント)による『狐と葡萄(ラフォンテーヌ寓話)』(1963年作)、『窓辺の花瓶』など3点を、比較的大きな画像で紹介。 リンク先:
アンシャンテ |
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静謐(せいひつ※)でありつつ、緻密で、理知的な芸術世界である。
展覧会場にて、それに、自身の感覚をゆだねるようにして鑑賞すると、面白い現象を体験することになる。 血液が脳みそのほうへと上がってくるのだ。 前頭葉と前頭葉のあたりが、心地のよい感じで活性化してきて、首のあたりから背骨、そして尾てい骨へと、爽やかな気が流れていくのだ。 表現は、個々さまざまではあろうが、このような体験をしたのは、おそらく、筆者だけではないはずである。 これは、長谷川潔の芸術世界が持つ、確かなパワーだ。
絵画とは、視覚芸術である。 観るひとの視覚に訴求する芸術という意味なのであるが、長谷川潔の場合は、絵に持たせようとした意味に関して独特なものがある。 それは「思考および視覚の心地よき体験の芸術」を実現しようとしたと思われることだ。
優れた技術により写実的に描き込まれたその絵の前に立つひとは、まず長谷川が制作時に有していた「視覚そのものを体験」するわけなのだが、そこでたたずむ時間が経過するにつれて、目の前にある絵とは、長谷川潔といういうひとりの人間の「哲学的ともいうべき思考によって構築された、心地のよい視覚」であることに、気がつくことになるのである。
この志向に沿い制作された長谷川の作品たちの中には、制作の場で感じただろう、ほほや額やあごを、かすかに撫でていく風の感触さえもが、感じられてくる作品もあった。 本展に出品されていた、1920年代後半から30年代にかけて制作された、思いがけないほどすばらしい油彩作品、『マルキシャンヌの村』などがそうである。
また、展覧会場には、キュビズム(立体派)を意識した作品もあった。 ときどき、印象派の大画家
ポール・セザンヌ(1839-1906)が持っていただろう視線があることも感じたりもした。 実際に旅をして、セザンヌの家を描いたりもしている。
かつて印象派の画家たちを熱中させた版画「浮世絵」を生み出した国からやってきて、セザンヌ芸術を理解し、またそして、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ(1853-1890)が直感的に開拓したような表現主義の手法も本場で吸収しつつ、銅版画における独自の表現法を磨いていった模様だ。 なかなか爽快な展開である。
半世紀にも渡るフランスにおける、このひとりの優れた日本人による緻密な仕事、つまり 「思考および視覚の心地よき体験芸術」の存在を通して、現代を生きるわたしたちは、もしもあの時代のフランスに渡ったならば、いったいどんなことができた可能性があったのだろうかということまでにも、想像を働かせて楽しむ機会を、嬉しくも手にしているのである... 続き/Page
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ところで、フランスでは、19世紀に、心理学者ピエール・ジャネーによって、ある学説が提唱されている。
「生涯のある時期における時間の、心理的な長さは、年齢の逆数に比例する」というもので、ジャネーの法則と呼ばれている。
6歳の少年少女にとって、1年とは人生の6分の1と、その存在は大きいが、60歳のひとにとって、1年は人生の60分の1にすぎない。 また、少年少女は、毎日のように初めての経験をしていくものだが、大人は繰り返しのことが多くなる。 だから、少年少女にとっての過ごす時間は体感的に長く感じられて、大人にとっての過ごす時間は体感的に短く感じられる、という考え方だ。 なるほどと思うところがある。
だが、それでも、「1日が早くなった、1年なんてあっという間だ」と、口にすることが多くなってきたのなら、すこし考えてみるのもよいかもしれない。 斬新で創造的なテーマに取り組んでみたり、より多くの良質の芸術に接したり、読んだことのない分野の読書をしてみたり、なぜか興味を惹かれている場所へ旅行をしてみたりと、初めての経験を増やしてみるのはよいだろう。 そうして、自身の体感時間を、新鮮味があって長いものにする努力をしてみるのだ。
そうそう、1日や1時間といった「物理的」な長さとは、地球上のどこにおいても等しく、誰にとっても平等だ。
※ 静謐 = 事件がなくて、穏やかな様子のこと
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■ 後記 横浜美術館にて「長谷川潔展」を楽しんだあと、館内で同時に開催されていた版画展を鑑賞しておりましたところ、20世紀フランス・フォーヴィスムの画家アンリ・マティス(1886-1968)の『ダンス』シリーズの小品がありました。 そのあっけらかんとしていて、たいへん感性的な作品の前に立ったとき、筆者の精神は弛緩(しかん)して、脳みそのほうに集まっていた血液が、もとに戻っていくのを感じました。 この経験を通して、長谷川潔の独特の芸術世界は、脳内活性化を伴う理知的なものであることを、あらためて強く認識しました。
芸術の種類とは広くさまざまがあり、変化にも富んでいます。 先入観のないニュートラルなスタンスで接してみて、深く知っていけば知っていくほど、それぞれに関する面白みが、自然と増していきます。 |