古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第222話 2013/01/29公開 |
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■ わたしたちは、時間という流れの中を、過去と呼ばれようとしているものである今、そして、それは同時に、未来と呼ばれなくなりつつある今を、生きる。
その時間の流れは、過去のほうから、未来のほうへと、一方向的に流れているものであり、光速を超えるものが発見されるまでは、揺るぎなく不可逆的である。
しかし、物理的な世界にて見る時間の流れというものも、それを、わたしたち人間が、どのように認識するかという切り口になってくると、流れが、必ずしも不可逆的であるとは言えなくなるようだ。
ひとが認識する、時の流れとは、ただ一方向的に、あるいは直線的に、刻まれていくものというよりも、むしろ、感覚的に言って、「回っているもの」に近いかもしれない。
それは、わたしたちが、惑星地球に由来する生きものであることに、強く関連しているのだろう。
壁に掛けてある時計などに目をやると、秒針、分針、時針が、それぞれのペースで、回っているが、大きく見れば、地球が、一回転するのが、一日である。
さて、その一方、ひとの感覚においては、一日とは、どのようなものだろうか。
朝昼晩というが、これに睡眠の時間帯が加わった、”朝昼晩眠”が、それであって、これが、ひと回り回って一日だ。 朝昼晩眠の”眠”の時間は、意識がないので、認識をせず、朝昼晩と言って、一日のことを表現するところが、生きものである人間らしいところである。
地球が、太陽の周りを、一周して、一年。
そのとき、地球の自転軸が、公転面に対して傾いていることのために、地球が軌道のどの辺にいるのかによって、太陽光の当たりかたが変わって、地上では季節が生まれる。
わたしたちは、それぞれの季節に合ったライフスタイルをとることを、一年単位で繰り返したり、また、そうした季節の変化そのものを楽しんだり、時節にふさわしい行事などを、お祝いごとのように興じたりする。
さて、人間が関わるものごとの持つ、ひと回りの感覚の、一日といった短いものから、一年といった長めのものについて見たが、ここで、人間の人生であるとか、ひとびとが、相互関係を持ったり、織り成していくといったような、歴史であるとかのスケールで、考えてみたとき、およそ10年といったくらいのところが、ものごとの、ひと回りの感覚というものが、あるいは、あるかもしれない。
世の中、巡り合わせとも、しばしば言われるところだが、人間は社会的な生きものであるので、たとえ独立不羈(どくりつふき)を座右の銘にしているひとであっても、まして、それをそれほど意識していないのであればなおさら、ひとの社会との相互的な関わりを通して、時代の雰囲気に影響されるものである。
これらのことについて、興味深いエピソードがあるので、今日はそれをご紹介しよう。
旅行は、国内・海外を問わず、好きなほうである。
それぞれの土地やひとびとの営みから、さまざまなことを感じとったり、感慨を受けたりすることに、面白みを感じるから、旅行が好きだという方も、多いと思われるが、わたしもそうである。
そうした意味で、幾たびか訪れていても、また新たな発見や魅力をかもし出してくれるところのひとつが、京都である。 長い歴史が蓄積しているものが確かに存在する一方で、新たな気風を吸収することにも、前向きな都だ。
そのときどきの縁のようなものに導かれて、京都を訪れている。
いずれの旅行も、その行程立案などでは、中心的役割をしたが、訪れることになったきっかけや契機は、わたしの外から縁のようにしてやってきた。 それゆえ、何か一個人の内在的動機というよりは、時代の雰囲気や潮流といったものが、そのような縁を、もたらしたように思えてならない。
修学旅行で行った京都は別にして、おおむね10年に一度くらい訪れている。 1991年、2005年、そして2012年である。
記憶を反すうしながら考えてみると、それらの年とは、世の中の大きな振れといったものが、何かの極みへと到達した結果、そこで大転換を起こした年であった。
長い歴史を蓄積させる過程で、新たな気風をも吸収していく京都。 それは、ひとびとが織り成す大きな振れが、ある極みに達したとき、自分を取り戻そうとするひとたちの前に、忽然と現れて、旅へと手招きしているかのようである。
旅人たちは、京都を、重力アンカーポイントにして、惑星スイングバイを行い、新たな軌道へと、進んでいく。
ひとは皆、旅人と、誰かが言っていた。
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(C)
柳澤 徹 京都 2012・9 #1 高雄 神護寺 写真
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● 京都に住むひとたちが、夏に涼みに訪れる場所のひとつが、高雄(たかお)である。 京都市街の北西の山あいを、しばらく入ったところにあり、もみじが自然群生していることでも知られている。 訪れた時期は、夏涼みの川床は終了しているが、もみじの紅葉の季節には、まだ早いころであった。 それゆえ、山あいの山腹にある神護寺では、朝の時間帯であったことも相まって、寺社の受付以外に人影もなく、そこを満喫するという点では、絶好であった。
旅の醍醐味は、先入感を持たないことだとも言うが、予見なく来た境内は、広々としていて奥深かった。 お堂などが数多くあったが、重なる風雨雪によってつくられた風合いによって、建物が自然の中に溶け込んでいる山寺の様子は、期待を上回るものであった。 はじめの建物に近寄ると、緑盛んなもみじの間から、入り口が見えた。
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