古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第159話 2005/03/25公開 |
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■ 『印象・日の出』。 1874年の展覧会に出品した一枚の油絵に、画家モネがつけた、題名だった... 続き/Page
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クロード・モネ
(1840-1926) 印象・日の出
1872年 油彩 48×63cm マルモッタン美術館(仏国)
所蔵
フランス印象派 |
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風景が観せる、ある瞬間を、切り取ったかの絵だ。 この1日のはじまりの、すがすがしいひと時を、小船に乗ったひとも、静かに味わっているようだ。 昇ってきた太陽は、この日、オレンジ色をしていたらしい。 こんな色合いとなることが、実際にあるものだ。
クロード・モネ。 パリに生まれたが、ルアーブルにて育つ。 この町で、画家ブータンに、才能を見出され、共に、戸外での作品制作に励む。 やがて19歳のころ、画家になることを決意して、パリへと移る。
そこで、マネ、ピサロ、ルノワール、シスレーと交流していくうち、かのグループ展覧会を開催することになる。
これを観た、当時の美術批評家は、「最初の印象を、描きとめたもので、完成した絵画作品というよりは、スケッチのようなもの」と、やや軽んじ、ちょうどモネの作品の題名が、それを象徴しているようであったことから、このグループを
「印象派 (Impressionists)」と名づけた。
この美術批評家の目は、ある意味で、確かだ。 実際、モネたちの作品は、「自然からの最初の印象を、戸外でキャンバスへ、直接的に定着させたもの」であったからである。
19世紀後半のフランスでは、美術アカデミーが権威化した状態にあった。 アカデミーは、美術の規範と、その基準を定めて、数多くのアトリエは、それに追従した。 権威が存在すること自体は良いが、それが絶対視され、固着してしまうことは、活力のある進歩ということにとって、望ましいものでないことは、ひとの歴史を知る方ならば、すぐに気がつかれることだろう。
権威の内側から、モネたちの絵を観た、かの美術批評家は、当時の「常識」からすれば、間違えたのではなかったろう。 ただ、今日であれば、わたしたちが直感的に理解できる、「ひとのこころを、より感動へと導けるものが、価値を持つことになろうこと」には、まだ考えが及ばなかったのである... 続き/Page
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さて、これ以降、「印象派」のリーダー的存在となり、大活躍したモネであるが、40歳のころ、パリ郊外のジベルニーに、土地を求め、憧れでもあった日本式庭園を造った。
池には、太鼓橋をかけ、睡蓮(スイレン)を、浮かべた。 そしてやがて、ここで、池と睡蓮を描くことに、半生を捧げていくことになる。
ところで、群馬の草津に、中沢ヴィレッジという保養施設があるのを、ご存知だろうか? 宮崎駿監督の劇場用アニメ
『千と千尋の神隠し』の主な舞台となる湯屋の効果音が、ここの大浴場にて収録されたことでも知られ、クアハウス「テルメテルメ」を擁す、リゾートである。
沼地や池で育つ睡蓮は、日本では珍しくはない。 むしろ、日本的と感じさせる植物である。 同敷地の、けっこう歩いた飛び地のようなところに、「モネの池」があった。 目算で150メートルくらいの大きさの池で、ジベルニーの日本庭園を念頭に、睡蓮が浮かべられている... 続き/Page
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(C) 柳澤 徹 群馬・草津 2004・10 #1
ver.2
睡蓮 「モネの池」にて フォトアート |
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日本に憧れて、モネが池を造り、それが描かれた絵に憧れて、日本人が池を造る。 そして、それを観た筆者が、アートにし、ここに掲載した。
このあと、どう発展するのかは、楽しみなところだが、なにやら、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)のような、逆輸入感覚もあり、また、こういう伝播こそが、ひとが文化を形成していく、仕組みではないかとも思えてくる。
さて、池の端の、丸太の椅子に腰掛けて、落ち着いた時間を過ごしていると、やわらかな風が、岸に生える熊笹の葉を、サラサラと鳴らし、水面には、さざなみの足跡を、いくつも作った。 止んでは、やがて、どこからともなく、吹いてきた。
自然って、いいなあ。
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