古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第200話 2008/03/07公開 |
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■ 「人間は考える葦である」とは、17世紀フランスの数学者であり、哲学者であったブレーズ・パスカルの思索を集めた、『瞑想録(パンセ)』にある、一度聞いたならば記憶に残る、印象的なフレーズである。
「葦」とは、湿地に生えるイネ科の植物で、茎は中空で、まっすぐに伸びて木のようになり、軽くて丈夫な棒として活用される。 ただし、竹ほどの強度はない。
パスカルが言う「人間は考える葦である」とのフレーズは、荒々しい自然界において、人間は最強の生物ではなく、限界のある存在なのだけれども、「考えるということ」をもってしたならば、宇宙をも超えるべき、無限の可能性を持つ存在であるとの思想を、表現したものである。
「自然界」と言ったとき、地球を含めた宇宙の、人間の作為の加わらないあるがままの世界のことを指しているのが、思想が語られるときの正確なニュアンスかと思われるが、「自然界」と聞いて、海外の映像がメインのドキュメンタリー番組
『野生の王国』に映し出されている様子などが思い出されて、また、「葦」と言われて、河原の川べりの方などへ行ってみたならば、よく生えている背の高い草のようなもののことだろうとのイメージは持つことのできた、何かの読み物でこの「人間は考える葦である」という印象的なフレーズを知った小学生の筆者は、都市があって、電車や自動車が走り、空には飛行機も飛んでいる世の中を想起しながら、なるほど、上手いことを言ったひとがいるものだと思った。
やがて、中学生となると、ある彫刻家が創る作品のことを知った。 その人物彫刻は、地面にと着くあたりでは足がゴツッとしているのではあるが、そこから生える脚は極端と言っていいほどに細く、胴体もしかりである。 そして小さな頭部がその上にある。
全体として、人体では在り得ないほどに細いシェイプではあるが、ひとのひとたるの要点を突き詰めた上で、把握していると見えて、たいへんなリアリティを湛えていた。 そして、感じさせるのだった、これこそひとだ、ひととはこういうものなのだと。
その人物彫刻の作者が、アルベルト・ジャコメッティだった。 20世紀のはじめに、スイスのイタリア語圏の山村で生まれ、フランスにおいて主に活躍した彫刻家だ。 特に、1950年以降に制作した、一連の細いシェイプの人物彫刻は芸術性がとても高く、世界的にも名高い。
ジャコメッティの、細いがリアリティある人物彫刻を観ていて、パスカルのかのフレーズのことが思い浮かんだ。
「人間は考える葦である」
日本語において、「葦」と、ジャコメッティ作品の特徴的なところでもある「脚」の音(おん)が、たまたま同じであることも、この連想の助けとなっていたかもしれない。
このことでの興味深い思い出だったのは、この連想は、ジャコメッティ芸術の理解への重要な手がかりではあったのであるが、ジャコメッティが、「人間は考える葦である」という考えそのものを人物彫刻にするということのみに、才能を発揮し、自らの能力を使ったのではないだろうことが、直感されたことだった。
むしろ、この連想で有益だったのは、自身が以前より知っていたパスカルのかのフレーズの、「人間」と「葦」とを関連付ける部分に対して、ジャコメッティの細くリアルな作品が、具体的なイメージを与え、肉付けをしてくれたことだった。 なるほど、思想家パスカルとは、大きな視点でもって人間の力を讃え、また、勇気を与えているのだと。 つまり、このフレーズへの理解が、より深まったのである。
さて、ジャコメッティの彫刻作品であるが、幾つか鑑賞していくと、ある特徴に気がつくことになる。
多くの芸術家と同じく、ジャコメッティも作品を制作するにあたって、人物モデルをしばしば必要とした。 そして、出来上がった作品を観ると、たしかにモデルとなった人物の特徴が、突き詰められて表現されていて、これはそのひとがモデルになった彫刻であることに間違いないと判る。
しかし、作品において表現されたものをじっくりと観ていると、そのモデルの気質であるとか性質であるとか、また、置かれている状況、抱いている感情といったものが、彫刻の表現に含まれていないことに気がつくのだ。
細いシェイプの彫刻が、一見して抽象的な作品であるかのようにも思えるところだが、作品が、モデルの外観的な特徴を的確に捉えていることから、ジャコメッティの彫刻は具象作品の領分にあるように思える。
しかし、モデルの内面性が彫刻表現に含まれていない。 それであるのに、現にジャコメッティの作品自体が発している高い芸術性とは、いったい、どこからやってきているのだろうか?
この問いへの答えは、ものごとを、とことん突き詰めることによって得ることのできたことそこが、真なるもので崇高であるという、分野を問わず、何か物事に真剣に取り組むひとが、しばしば持ち、ジャコメッティにもあった気質から、求められそうだ。
つまりこういうことである。 ジャコメッティの彫刻は、モデルになったひとの外観的な特徴が、的確に捉えられ表現されているものの、作品においてほんとうに表現され、語られているものは、芸術家ジャコメッティが、人間存在についてとことん突き詰めて行って掴んだこと、「人間とはこういうものだ」という、ジャコメッティの「ものの見方」なのである。
そしてそれが、いかに真なるものであったことは、ジャコメッティ作品が実際に、高い芸術性を発していること、そして多くのひとが共感をしているということが、証明している。
また、それがいかに真なるものであったかを、もうひとつ書き加えるならば、一連の作品において、ジャコメッティの表現は、常にそこに行き着くことになったということだ。 1950年以降のジャコメッティの彫刻のどれかひとつをとって観たならば、ジャコメッティが獲得したものの見方というものが、そこに表現されているのだ。 それほどに、ジャコメッティの真理であったのだ。
かくして、わたしたちがジャコメッティの彫刻を観るときに感じるリアリティとは、これらのことが、背景にあることからだと思う。
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(C) 柳澤 徹 トルコ 2000・11 #13
『ポプラ並木』 写真
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アナトリア高原の長く、わずかに起伏を繰返す一本道を、ひたひたと独走するバスが、一息をつくために寄ったのは、気の利いたドライブインであった。 うっかりと通り過ぎられてしまわないようにするためか、細長く伸びて生えるポプラの木が、美しい目印になるように、並木状に植えられていた。
人間が自然界と対峙して、得たものの大きさに、異論などないものの、共生して得られるものもまた、大きい。
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