古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第193話 2007/08/03公開 |
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■ 1970年代後半に制作された、アメリカ青春映画に、『ビッグ・ウェンズデー』があった。 普段であっても、そこそこの波は寄せてくる、カリフォルニアの海岸が舞台。
時は1962年。 1年に1回とかそんな感じでやってくるという、伝説の大波 ”ビッグ・ウェンズデー”に乗ることを夢見つつ、サーフィンに明け暮れる若者の物語だ。
1940年代終盤に、劇作家サミュエル・ベケットによって書かれた不条理劇、『ゴドーを待ちながら』の中で、待たれる存在として話題の中心にありながらも、一向にやってこない”ゴドー”とは異なって、映画『ビッグ・ウェンズデー』においては、そのタイトルともなった「伝説のビッグ・ウェーブ」は、ストーリーの後半、しばしの時を経たあと、遂にやってくる。
沖の方から、その手前のブルーの海面を、巻き込みつつやってくる ”ビッグ・ウェンズデー”。 その波は、だんだんと大きくなりながら、その一方、波頭は、遠くの端の方からスライドしていくかのように、次々と、白くはぜていく。
挑むサーファーは、この大波を背にし、それが引上げていく斜面状の海面の上を、サーフボードで滑空するように、走る。
自然が成せるダイナミックな営みと、ひととが一体となっていくかの映像には、観ているうちにいつしか、それがなにか、深遠なるものを、語ろうとしているかのようにも、思えてくるのだった。
さて、かつて筆者が小学生であったころの話であるが、ある町医者の待合室の壁には、荒磯に押し寄せる波を描いた絵が、掛けてあった... 続き/Page
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ギュスターヴ・クールベ(1819-1877) 『波』
油彩 1870年頃 72×92cm 国立西洋美術館 所蔵
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岩場の海岸に対し、沖から波が、次々と寄せている。 ひと際大きな手前の波は、それより前にある深緑の海面を、巻き込みつつせり上がっている。 そして、その波の端の方からは、波頭が白く、はぜていく。
「なんて、良く描けている絵なのだろう。 波を、こんなにも本物のように、描いているなあ。 それに画面全体からは、情感というものが伝わり、響いてくるなあ。 立派な作品だ」
筆のタッチの大きさからして、縮小がかかっているようだったので、絵は複製であると、推察されるところではあったが、子供ながらに、上述のような感想を抱いたように、記憶している。
のちに中学生となってから、その絵は、フランスのクールベという画家が描いたもので、上野の西洋美術館にあることを知った。 同時に、待合室にあったのは、複製だったことも明確となったが、絵がどれほど、ひとりの子供の関心を惹いて、こころ動かしたかを思えば、購入して掛けておいてくれたひとへの、感謝の念さえ抱かれることだ。
さて、何かを表現するということは、言うまでもなく、日々、広範な分野で、さまざまな方法にて行われている。 本列伝をご覧になられている方も、そうしておられる、もしくは、強い関心を持っておられることと、思われるところだ。
「絵画」でもって、表現活動をするひとは、画家である。
19世紀のクールベのように、みごとな写実絵画を制作するのであったならば、対象をしっかりと観察していける眼力とは、そうとうに優れたものであったに違いない。 白いキャンバスの上に、自身の手による筆の技によって表現を行うのであるから、少なくとも視覚的には、対象を完璧なほどに、理解していたことだろう。
巨匠クールベは、人物画も多数制作しているが、拝見すると、じつに正確であって確固たるものたちにと、描き上がっている。
さて、写実の絵を描くにあたっては、人物画ならばモデルが、風景画ならば景色そのものが、自身の目で観察すべき対象になろうが、この作品『波』の場合については、どうだろうか?
海面をロールしながら迫ってくる波。 それは、人物やそのほかの風景とは、とても「状態」の違うものなのである。 そう、波は、じっとしていては、くれないのだ!
いくら巨匠が、視覚的な能力に優れていたとしても、そのように動きの早いものを、どうやってこれほどまで克明に、写実的に描き出したのかは、不思議...
画家ギュスターヴ・クールベは、19世紀半ばに、絵画における「写実主義」を打ち立てたひとである。 そして、この19世紀半ばとは、「写真」という新技術が、実用の域に入ってきた時期でもあるのだ。
クールベは、この新しい実用技術が持っている表現の仕方や可能性を早々に認識して、自身の絵画表現世界に、取り込んでいったのであった。 「写真」にして初めて、人類が捉え得たものたちを
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(C) 柳澤 徹 東京・池袋 2006・3 #3
『西口公園の大きくて丸い噴水/凪』 写真
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ここは池袋西口公園。 その中央部には、黒くて磨かれた石によって円周を囲まれ、水がなみなみとした、大きな噴水がある。
今は凪(なぎ)の時間帯であるが、ついさっきまで、噴水内に多数配された、水中の噴出口からは、水の柱たちが勢い良く立てられ、ショウ仕立てであるように、次々と形を変えていったところであった。
そのため、水面は、いまだに波立ち、ふちからは溢れなどしている。 陽の光は、さざなみの上で無数に分かれて、戯れるようにして、美しく、輝いている。
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