古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第201話 2008/04/04公開 |
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画家
ジャン・バティスト・シメオン・シャルダン 赤エイのある静物
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■ 18世紀に起きたことの中でも、世界広く、そして、そしてわたしたちの社会の成り立ちにも、影響を及ぼした出来事の代表と言えば、自由・平等・同胞愛を掲げた、フランス革命であったことだろう。
一国といったような規模の騒乱を伴う、実際的な革命は、18世紀もほぼ終盤になってきた1789年に、バスティーユから起きて、1794年ごろまで続いた。
わたしたちが、実際に経験した革命と言うならば、20世紀のIT革命(情報革命)が、挙げられるだろう。
1960年代あたりから産業界へ、1980年代あたりからはひとびとの生活へと広がりはじめ、20世紀が終わろうとしていたころ、先進国を中心に、規模の大きな社会現象として顕在化した。
だが、このIT革命自体も、コンピュータを発明するという事象によって、1940年代にそのスタートを切っていたのだった。
この経験からしてみても、かのフランス革命が、18世紀のほぼ終盤のある日になったら、突然天地がひっくり返るように起きたものでないことは、想像に難くはない。
たとえば半世紀というような時間をかけながら、変革の規模が段階的に大きくなっていく。 そして、ひとびとの考え方や行動の仕方のほうが、もうすっかりと変わってしまってから、実際的な革命として、歴史上に顕在化してくると言ったほうが、正しいくらいに思える。
大きく18世紀を捉えたならば、その特徴的な思潮は、「啓蒙主義」であった。
啓蒙とは、英語で、エンライトゥンメント(Enlightenment)と表現されることからも分かるように、蒙(くら)きところを光で照らすというニュアンスを持つ。
まず、あらゆる人間には、共通する「理性」を有しているはずであるとの、前提に立つ。 そして、世界には、何らかの根本法則があるに違いなく、それは人間の理性によって認知可能であるとする考え方である。
啓蒙主義は、前世紀である17世紀に発達した自然科学におけるものの考え方を、人間社会へと発展させたようなところがあって、たとえばこういう風にものを考える。 超自然的な事由による偏見には捉われてはいけない、人間に備わる理性によってこそ、ものを考えるべきなのだと。
そして、20世紀のIT革命がそうであったように長い期間をかけて、18世紀の啓蒙主義も、フランス革命へと至る道を築いたのであった。
啓蒙主義を推進した哲学者としては、『社会契約論』(1762年)を著したジャン・ジャック・ルソー(1712-1778)、徹底した自由主義者ヴォルテール(1694-1778)らが有名である。
また、総執筆者が184名にものぼり、「技術と学問のあらゆる領域にわたって参照されうるような、そしてただ自分自身のためにのみ自学するひとびとを啓蒙すると同時に、他人の教育のために働く勇気を感じているひとびとを、手引きするのにも役立つような(筆:ダランベール
1717-1783)」事典として、1751年から1772年までと、20年超をかけて編纂され、合理的であって自由なものの考え方を広めた大規模百科事典、『百科全書、または学問・芸術・工芸の合理的辞典』は、フランス啓蒙思想の集大成である。
この『百科全書』(ひゃっかぜんしょ)の編纂という大事業の中心的人物だったのは、哲学者ドゥニ・ディドロ(1713-1784)である。
先に挙げたルソーやヴォルテールらに較べて、バランス感覚に秀でていたためか、現代においても、識者に好かれているようだ。
「後悔したり、他人を責めたりしないことが、賢明さへの第一歩である」との、有り難い名言も残している哲学者ディドロであるが、同時代のロココ美術には、享楽的であるとして、批判的であった。
その一方において、ディドロが、絶賛していた画家は、ジャン・バティスト・シメオン・シャルダンだった。 18世紀において全盛であったロココ美術と一線を画しながら、画家としてその時代を生き抜いた芸術家である
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ジャン・バティスト・シメオン・シャルダン(1699-1779)
『赤エイのある静物』 油彩 114×146cm 1728年
フランス ルーヴル美術館所蔵
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これは、画家シャルダンが描いたみごとな作品、『赤エイのある静物』である。 縦は1メートル超、横は1.5メートルの大作である。
壁際に配されたテーブルの上に、海産の食材や瓶や鍋などが、安定的に配されている。 落着いた色調によって、対象を写実的に描いている。 光は、画面の左の上方向から、注がれている。
これらの特徴から、シャルダンは、オランダが生み出した絵画芸術をよく知り、その伝統を継ぐ、もしくは踏まえ尊重した画家であることが分かる。
だが、オランダ絵画の影響をいくら受けていようとも、その作品のどれかを観ることがあれば、「あ!シャルダンだ」と分かる何かが、一貫としてある。 しかもそれは、およそ多くのひとにとって、心地よさをもたらすものなのである。
もしかすると、「穏やかさ」ということが、それなのかもしれない。
描画対象の、形態や質感を鋭く捉えているにも係わらず、ゆったりとして、落着いた空気が、いつもそこにある。
画面の中に、猫という、動物の様子が描き込まれている、この『赤エイのある静物』であっても、それが不思議と微笑ましいものとして感じられ、全体は穏やかな空気の中にある。
そして、この穏やかな情景には、超自然的な要素は含まれていない。 宗教的なもの、もしくはその影響を継いでいるものも、まったくない。 たださまざまな対象物が、確かにそこにある。
何に反応を示しているのかは不明な猫にも表われるように、それぞれの対象が、「関係がないと言うくらいに緩やかな関連性」を、携え合っている。
ただ静かに、シャルダンの絵と向き合う。 そうしているうちに、ひとは、何かによって歪められない、捉われたりしない、自分自身の内に備わっている「理性」が、ゆっくりと活性化し、開放されていくのを、実は感じている。
シャルダンの絵画に、およそ多くのひとが心地よさを感じるのは、自身の理性が開放されていくのが、心地よいからである。
画家シャルダンが生まれたのは、18世紀が始まろうとしていた1699年。 そして、フランス革命を少しく前にした1779年、80年に渡った生涯を閉じた。
その生きた時期ということからしても、シャルダンは、理性の世紀とも表現されるフランス18世紀を、まさに体現する芸術家だったのである。
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(C) 柳澤 徹 福島・いわき 2006・9 #1
『エイの景色』 写真
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極めて巨大で透明な円筒の、側面方向から、立体的なうず潮を見るかのごとく、無数のイワシから成る大群が、周遊するのを眺めることができるのは、環境水族館・アクアマリンふくしまの、館内展示のひとつである。
自分の目の前を、じゃんじゃんと通り過ぎていく小さなイワシたちは、しばしば、鯉のぼりさながらのように大きく口を開けていた。 およそ見るとは想像していなかった、自分の視界の上下に広がるこの光景は、超自然現象なのではない。 正真正銘、自然の再現なのだ。
「そう言えば、シシャモも、口を開けている」と、経験上の焼き魚などを連想しながら、考えられないほど巨大な水槽の中を見渡すと、あちらこちらにエイが、ノーチラス号のごとく泳ぎ回っているのが判った。
やがてその一尾が、この青い視界の底のほうから、わたしの立っているあたりへと、腹を見せながら浮上してくるのに気がついた。
「シャルダン...」 そうつぶやいたわたしの、カメラに掛かった指は、シャッターを切り続けていた。
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