古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第202話 2008/05/09公開 |
|
|
■ ハイリスク・ハイリターン。 ローリスク・ローリターン。 このフレーズの意味を、真に理解しているかは別として、このフレーズ自体、特に前者のほうは、小学生でも知っているほど有名である。
リスクとは、「これから起きることが、確実ではないこと」である。
たとえば、Aさんが、「次の元旦には、来年になる」と言ったとき、そうなることが確実であるので、「次の元旦には、来年になる」ことは、リスクでもなんでもない。 だが、別のBさんが、こう言ったときは、どうだろうか? 「次の元旦は、海外で過ごす」と。
これはBさんのそうありたいという願望、もしくは予定であるに過ぎない。 なんらかの要因によって次の元旦を、海外で過ごせなくなることもあるかもしれない。 これからのことが確実であるとは言えないわけなので、そこには、Bさんが「次の元旦を、海外で過ごすことを、阻害するリスクがある」ことになる。
だが、Bさんにとってのこのリスクは、「ローリスク」に留まることであろう。 みなさんもそう思われることだろう。
実は、わたしたちが、そう思ったことにこそ、「リスク」ということの、真の意味が示されている。
わたしたちは、Bさんのそのリスクが、ハイなのか、ローなのかについて「判断」をした。 「本人が願望、もしくは予定をしていることを、阻害する要因がないこともないだろうが、大抵の場合、そのようなことは滅多に起きない」と。 自分たちが知っている過去の事例などと照らし合わせて、そう判断をしたのだ。
ハイリスクであるとか、ローリスクであるとかの、度合いを「判断」できたのは、過去のデータと照合して予測を行った結果であった。 つまり、リスクとは、「これから起きることが、確実ではないのだが、その計測は可能な性質のもの」なのであり、これが真の意味である。
過去に起きたことを正確に学ぶことができたなら、リスクについて計測ができる。 その意味で、リスクであると認識されている限りにおいては、そのリスクの範疇で起きることのすべては、想定の範囲内のことであることになる。
もし、そうは思えない、そんなことあるはずがないというならば、過去データが揃っていないか、過去から学ぶつもりなどないか、調べたが表面的にであって間違った結論を導き出してきたかである可能性があるので、歴史や知識に対する謙虚さということも、学ぶ必要があるかもしれない。
なお、リスクという言葉は、日本語の「危険」という言葉とは少し意味が違っている。 必ずしもマイナス方向ばかりではなく、プラス方向の文脈にも、使用できるからだ。 たぶん、リスクという言葉は、日本語における「危険」を基調としながらも、その反対語である「安全」、そして「期待」と「不安」を、合成したような心理的なニュアンスを持っているのだと思う。
たとえばこんな用法が可能であろう。 これほどまで多くのひとびとが年末ジャンボ宝くじを買うのは、「自分に1等が当たるかもしれないのに買わないリスク」が、「買っても末等しか当たらないリスク」に、遥かに打ち勝っているのだとの社会的合意が成されているためではないだろうか、というふうに。
日本を貿易立国であるとの見方をした場合、通貨の為替変動は、リスクのひとつである。 妥当な採算が取れる契約をしたつもりでも、実際に製品を輸出(輸入)して、その代金を受取る(支払う)時期になってみたら、外国為替レートが大きく動いたあとで、運が良ければ大幅黒字、反対に運が悪ければ大幅赤字ということもあり得る。
これでは、契約時に行った採算計算は、いったいなんだったのかということになるし、宝くじなら余興で良いが、運任せでは経営にならず、社会的責任も果たせない。 ところが、為替変動とは「リスク」であった。 リスクなら、ヘッジが可能である。
外国為替変動のリスクは、為替予約という方法で、比較的容易にリスクヘッジできる。 実需に対して為替予約をしている限りにおいては、為替変動リスクは回避される。 (かれこれ15年ほど前になるが、筆者は為替予約を中核テーマにした論文を書いたことがある) 近年では、さらに進んだリスクヘッジ方法があるようだ。
ただ、ヘッジの方法があるからといって、急激な為替変動は、対応遅れを招くこともあろうから、好ましくはない。 また、円建てによる貿易が増える方向での環境整備が進展するのは、好ましいことと思う。
さて、リスクとは同類の言葉であり、しばしば同義としても用いられるものに、「不確実性」という言葉がある。
「これから起きることが、確実ではないこと」を指していることでは、リスクと同じではある。 だが、リスクと言ったとき、過去のデータとの照合による計測が可能であったのに対して、経済学者のジョン・メイナード・ケインズ(1883-1946)が定義するところによれば、たとえ照合しても、生起の確率すら計算できないようなのが、「不確実性」だという。
「不確実性の時代(The Age of Uncertainty)」(1977年 ジョン・ケネス・ガルブレイス)とも呼ばれるようになってから30年が経過したので、ひとびとはそのような中においても、将来に影響を及ぼすだろうことがらについて、選択を行うことにも慣れてきたのかもしれないが、計算不能、予測不能ということであるならば、いったいどのような判断基準で、選択を行っているのだろうか?
ケインズによれば、それはひとびとの「自主的な楽観」であるという。
「われわれが恐れるものは、ただひとつである。 恐れることだ」。 つまり、恐ろしいなどと思わなければ、この世に恐ろしいものなどひとつもないと、根っからの楽観を演説で示して、大恐慌の真っ只中の1933年に、アメリカ大統領に就任した、フランクリン・ルーズベルト(1882-1945)は、同年、国民のための新規まき直し政策「ニューディール」を実施した。
この政策の一環に、「連邦美術計画」があった。 新進の画家たちに、公共建築物における、壁画の制作、または、作品の設置を委嘱したものであった。 画家たちは、巨大な壁面に、スプレーガンやエアブラシで作品を描いた。 この計画に参加して、大いに啓発を受けることになったアーティストのひとりが、20代で参加したジャクソン・ポロックであった。
ポロックは、7年に渡る計画参加の終了ののち、翌1943年からは、キャンバスを床に、描画面を上にして置いて、手に持った缶から絵の具やペンキを、スティックを使いながら、したたらせて描く作品を創るようになる。
先の壁画制作の現場での体験が影響しているのは、言うまでもないところだが、先住民(アメリカン・インディアン)の砂絵の描き方も影響しているという。
ポロックのこの描き方は、「ドリッピング」と呼ばれる方法だが、作品が次第にひとびとの関心を集めていく。 ジャクソン・ポロックはその画風から、「ジャック・ザ・ドリッパー(したたりジャック)」(1956年
タイム誌)と、あだ名された。
街には、高層のビルディングがあると思うが、それはそこに既にあるものであって、それがどいう手順でもって造られたかについては、あまり想像しないのが一般的だと思う。 だが、もし、建設の過程を、時間短縮したコマ送りの映像が存在していて、それを見ることができたなら、なるほどよく分り、「ほう、こんなふうにして、造っていくのか!」と、意を得て、しきりに感心するのではないだろうか?
絵画制作の経験者の中でも、観察眼の肥えたひとならば、目の前になにか絵画作品があったとき、それを制作した画家が、どういう手順でもって描いていったのかが分かることもあるが、通常、画家は、作品の「完成した姿」を提示することを前提として描いているのであり、制作の過程が伝わるということを意図して描こうとは思わない。
だが、ポロックの作品が革新的であったのは、制作の過程が、鑑賞者に伝わることを意図していたことだ。
ポロックの絵の前で、ある程度の時間、目を凝らしていると、したたりの積み重なりの様子から、どの色のあたりから、したたりはじまったかが分かる。 いったん分かると、次へ、そして次へと理解ができていく。
すると、片手に持った缶から、スティックを使って絵の具をしたたらせながら、キャンバスのあちらこちらへと移動していく、ポロックの姿が、手に取るかのように浮かんでくるではないか!
鑑賞者の視線は画面の中のあちこちを、すばやく駆け巡っていき、鑑賞者の思考はポロックの動作(アクション)を反芻(はんすう)する。 こうして鑑賞者は、作品と、もしくは作者との、一体感を得る。
もともと絵画芸術、特にポール・セザンヌ以降には、こうした要素が含まれているのだが、画家のアクション自体を伝達することに特化し、分かりやすく提示したポロックの芸術(アクション・ペインティング)は、絵画の新規のあり方である。
さきほどリンク先で絵を観たときには、こぼれたペンキの跡ように感じられた方もおられたかもしれないが、どうだろうか、もう一度、ある程度の時間を、目を凝らしてみるのは。 ポロックがアクションしている姿が、浮かんでくるのではないだろうか?
キャンバスに、絵筆でならば、手を動かした通りに描かれるはずだ。 だが、キャンバス面からやや離れたところから、絵の具をしたたらせるのであれば、スティックから離れたあと、絵の具がどういうふうに着面していくのかについては、確実とは言えない。
だが、絵筆ほどのコントロールは効かないものの、絵の具がどのようにしたたるかは、ひとの経験から予測が可能なものである。 この点から、ジャクソン・ポロックの芸術とは、本人も語るように、偶然性によったものではない。 また、したたり方の予測は可能なので、不確実性によるなにかなのでもない。
言うなれば、リスクの芸術であることだろう。 リスクに積極姿勢なのは、アメリカらしいところである。
|
|
|
(C) 柳澤 徹 千葉・幕張 2007・11 #1
『アクションは 見えた世界を変える』 写真
|
|
|
●
やることリストの項目の実行済みに赤ペンで付けたチェックマークたち。 あるいは、多数のピースサイン。 あるいは、夜の街に現れて分身の術を使うバルタン。
実景の撮影時に加えたアクションが、見えた世界を変えている。
|
|
|