古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第182話 2006/09/01公開 |
|
ザ・ロネッツ
The Ronettes "Be
My Baby" Familly / フィル・スペクター ウォール・オブ・サウンド |
|
■ 稲妻のように冴えたクリエイティヴィティに、それを知覚可能な形とせしめる人材が集結して、よい仕事をした例は、古今東西、そしてさまざま分野において多々あり、その内容を聞いてみれば驚くばかりであるが、20世紀の60年代前半のアメリカン・ポップ・ミュージック・シーンにおいても、その事例を見出すことに、それほどの苦労はいらない。
なぜなら、結成したバンド、テディ・ベアーズにて、『会ったとたんに一目惚れ (To Know Him Is to Love
Him)』の大ヒットを飛ばしたあと、もっぱら音楽制作をするサイドへ転じ、ポップ・ミュージック史に名高い「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」スタイルの音楽をこの世に生み出した才人、フィル・スペクター(1940-)の存在があるからだ。
|
|
|
|
ザ・ロネッツ
ビー・マイ・ベイビー Be My Baby (1963年)
|
|
|
|
華麗ゆえに、繊細な危うさを内包しつつも、海岸で次々と押し寄せる波のように、さまざまな「気分」を象徴するかの印象的なコードとフレーズが、時間の経過とともに繰り出される、スペクターとはちょうど100歳違いのピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)の協奏曲、具体的に言えば
『ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23』(1874-75) を思い起こさせるような、重厚かつ情感に満ちた音楽である。
ソリストを勤めるロニーの、歌詞の言葉の意味を明快に表出しきる、特徴ある母音の響きの歌声、そして、冒頭からも、完璧ともいうべき間合いをたたきだすハル・ブレイン(1929-)のドラムス...かくも、これしかないとも思うような人材があつまることができて、スペクターの、溢れるクリエイティヴィティを具現化したことだと、驚くばかりである。
ラジオから流れてくるこの曲を聴いて、それこそ雷に打たれたように しびれたひとは、実に数に限りがなかったことだろう。
今日は、そうしたひとたちの中でも、音楽を生み出すサイドのひと、すなわちミュージシャンたちが、このすばらしい曲に「会ったとたんに一目惚れ」をし、その創造性をいかに強く刺激されたかについて、触れていってみたいと思う... 続き/Page
Up
|
|
|
(C)
柳澤 徹 『ピンクのクーペ』
CG 2003・1 |
|
|
■ ザ・ビーチ・ボーイズ ドント・ウォーリー・ベイビー The
Beach Boys : Don't Worry Baby 1964年
まずは、同時代において、素早く反応した音楽家についてである。
自分たちがその中にいる、ウェスト・コーストのサーフィン生活や青春を、素朴なタッチで音楽化していたグループ、ザ・ビーチ・ボーイズ。 その中心メンバーであり、作曲と編曲を手がけることの多かった
ブライアン・ウィルソン(1942-)が、スペクター・サウンドを、敬愛した。 そして、ウィルソンたちは、うねるようにグラデュエイトする厚みあるコーラスを編み出し、情感に満ちた
これまたすばらしい曲 『ドント・ウォーリー・ベイビー』を生んだのだった。
■ ビリー・ジョエル さよならハリウッド Billy
Joel : Say Goodbye to Hollywood 1976年
1970年代と80年代を通して、都会生活者が示す、さまざまな境地や心境を、分かりやすいメロディと 共感の持てる歌詞にて歌い上げたのは、ビリー・ジョエル(1949-)である。 作曲をして歌うことと、自らの命が燃えることとが、極めて一体化したこの真摯な音楽家は、アルバム『ピアノ・マン』(1973年)でのヒットの3年後に、"Say
Goodbye to Hollywood"を生んだ。
十代なかばという多感な時期に、ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』に接したわけだが、恐るべきほどの歌唱力を持つに到ったひとらしくジョエルは、この曲の中で、もっぱら歌姫ロニーの歌唱に興味と敬愛を示している。
ちなみに、このとき楽曲の演奏を担ったのは、ブルース・スプリングスティーン(1949-)のバックバンドとして広く知られる
ザ・Eストリートバンドで、都市的でありつつ、腰の強さと軽快さをも併せ持つ サウンドにと仕上がっている。
また、この曲は、かのロニーにも気に入られ、彼女によってカバーされている。
■ 大滝詠一 恋するカレン 1981年
ロネッツの『ビー・マイ・ベイビー』から20年弱、コンドラチェフの波的に、冷戦構造下の日本に訪れた隆盛によって、アメリカのあのころのシチュエーションが再現されたかのようでもあったころ、自らのレコード・レーベルを、"大滝"を転じて「ナイアガラ」と称し、流れ落ちる水の壁と説明されることもある「ナイアガラ・サウンド」で固めた、大滝詠一(おおたき
えいいち 1948-)のアルバム "A Long Vacation"(1981年)が発表された。
ブルーな歌が多くも、音響の爽やかさに優れ、楽曲の創り込みにおいても、それ以前の日本のポップスになかったような確固さと
冴えといったものがあり、この創造性に満ちたアルバムは当時でミリオンセラー、その後の20年間で、リマスター盤等をあわせてさらにミリオン(100万枚)が販売されたので、お持ちの方もけっこうおられるのではないだろうか?
フィル・スペクターを、その評伝を出版するほどに敬愛している大滝であるが、"A Long Vacation (ア・ロング・バケーション)"は、その音楽にアメリカ的なものが流れていつつも、どこか欧州風の感覚を併せ持っている。 制作には、「ウォール・オブ・サウンド」の思考がなされているが、そのもともとのスペクターに、ロシアにおいてさえ"西欧派"と呼ばれたチャイコフスキーの影響があるやに見えるからなのかもしれない。
さて、『恋するカレン』であるが、音楽活動において大滝が培ってきたクリエイティヴィティが存分に発揮されて、華麗かつ可憐(カレン)な、すばらしい曲に仕上がっている。 ピアノ、ギター、パーカッション、ストリングスにて曲がはじまり、日本を知る作詞家の松本隆(まつもと
たかし 1949-)の歌詞によって、日本人文化にマッチするようにつくられていることもあって、どこに『ビー・マイ・ベイビー』へのオマージュがあるのか分からないほどであるが、骨格にそれがある。
■ エイジア ヒート・オブ・ザ・モーメント Asia
: Heat of the Moment 1982年
1979年に世に出た、SONYのヘッドフォンステレオ「ウォークマン」のもたらした革命性によって、1980年代初頭とは、生まれてくる音楽に性質的変化が起きた時期であったとともに、その変化から生じる新たな活力によって、エネルギーが充満していた時期でもあった。
そのような中、相次いで解散していったプログレッシヴ・ロック・バンドの秀逸な元メンバーたちが、新バンドを結成した。 メンバーの顔ぶれは、元キング・クリムゾン、ロキシー・ミュージック、U.K.のジョン・ウェットン(ヴォーカル
1949-)、元イエスのスティーヴ・ハウ(ギター/ヴォーカル 1947-)、元エマーソン・レイク&パーマーのカール・パーマー(ドラムス
1950-)、元バグルス、イエスのジェフ・ダウンズ(キーボード 1952-)の4人であった。
先にも触れたコンドラチェフの波的に、その上弦の頂点あたりにあった日本のイメージが強烈だったのか、1981年の大滝詠一
"A Long Vacation"の成功が研究されたのか、バンド名を「エイジア(Asia)」と称し、そのスタイルは
ポップ・ミュージック色の強いものとなった。
1982年、海上に浮かぶ輝く玉と、やや西洋風でカラフルなデザインの躍動するドラゴン(竜)が描かれたLPジャケットを目にして、筆者も含めて、多くのひとが購買意欲を刺激させられたが、その内容も期待する以上のものであったことは、これまた、それを知る多くの方が同意されるところだろう。
その1曲目に収録されていたのが、『ヒート・オブ・ザ・モーメント』であり、このグループの方向性や特性を、大々的に打ち立てた曲である。 そして、その骨格がまた、ポップ・ミュージック『ビー・マイ・ベイビー』の研究の末に構築されているのだ。
そして、この活力に満ちた曲のすごいところは、スペクターの「ウォール・オブ・サウンド(音の壁)」が、とにかくたくさんの演奏者たちを
重ね録音していって創られたのに対して、(エイジアが)極めて敏腕な、たった4人のメンバーによって、音の壁をそびえさせたことにある。
■ ヤズー オンリー・ユー Yazoo
(Yaz) : Only You 1982年
1970年代から80年代にかけてのポップ・ミュージックの歴史において、YMO(イエロー・マジック・オーケストラ)やクラフトワークに代表されるような、「テクノ・ポップ」という潮流があった。 (電気街の秋葉原を歩いていると、もみあげを完全にそり落とした髪型
「テクノカット」をしたひとを、ときどき見かけたものだった)
1980年結成のニューウェーブのイギリスのバンドに、「デペッシュ・モード」があるが、そのライブ・ツアーでまわることがいやで、グループを脱退したアーティストがいた。 「スタジオの虫」ともあだ名された、ヴィンス・クラーク(1960-)である。
シェイクスピアの時代からイギリスに続くような、深いウィットや意識を内包した、このクリエイティヴィティに溢れる人物が、パワフルで表現力に富む歌手
アリソン・モイエ(1961-)と知り合いになり、結成したのがテクノ・ポップ(シンセ・ポップ)の「ヤズー」であった。
ヴィンス・クラークは、極めて優れたシンセサイザーの使い手である。 そして、音楽の要素のうちでも「リズム」に対してたいへんな興味を持っていて、また、楽曲をプログラミングしながら創ることが、たいへん性に合っていたようである。
こうしてみると、録音機材等の違いはあっても、1960年代初頭に 歌姫ロニーと出会ったフィル・スペクターと、ダブるようで興味深いが、クラークのほうも、「スペクター・サウンド」をやってみたくて、仕方がなかったようだ。
ヤズーが具現化した、筆舌しがたく美しいテクノ・ポップ曲 『オンリー・ユー』は、「ビー・マイ・ベイビー・ファミリー」の栄誉ある一員だ。