古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第225話 2014/01/26公開 |
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ピョートル・チャイコフスキー
ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23
Pyotr Ilyich Tchaikovsky The Piano Concerto No.
1 in B-flat minor, Op. 23 |
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■ 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。 情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。 とかくに人の世は住みにくい。
これは、20世紀のはじめに夏目漱石(なつめそうせき)が書いた、小説「草枕」の冒頭部分である。
もっとも、世界に暮らすひとびとの大半が、人の世は住みにくいと考えているならば、人の世自体がこのように今日まで長続きはしていないだろうから、多くのひとにとって、人の世は住みにくいものではないと思われるところであるが、ひとも、時代によっては、あるいは置かれた状況によっては、そのように思うこともあることが、この一文を、ことさら印象的なものにしている。
では、智に働くとはどういうことだろうか?
智とは知識や知恵のことをいうが、それらがなければ人の世というものも成り立たないであろうから、漱石がここでいっているのは、おそらくは、徳であるとか、善なる哲学がなくして、知恵ばかりを駆使して都合の良いようにしていると、やがては角が立つようになるということなのだろう。 それはもっともなことだ。
それでは、情に棹さすとはどういうことだろうか?
情とは、ものに感じて動くこころの働きのこと。 他者に対する思いやりの気持ちや愛情から生まれたり、もののおもむきや味わいといったものから生じたりするが、まさにこれらこそが、ひとに喜びや幸せを感じさせるものであり、ひとひとりひとりが、ひとらしくあるために不可欠なものである。 ただ漱石がここでいっているのは、それだけが生のすべてとなってしまうとおぼれるということなのだろう。 ただ、これは21世紀だからいえるということなのかもしれないが、浮かぶ瀬が直感されるのであれば、飛び込むべきようにも思う。
三つ目の、意地を通すとはどういうことだろうか?
意地とは、心根のことであり、とくに、自分の思うことを無理に押し通そうとするこころ、物をむやみにほしがる気持ちなどを指す。 近代以降に生きるひとにとって、「われ思うゆえにわれあり」は大事な価値観であることは疑いようもないことであるが、漱石がいうのは、それに自分勝手な気持ちが混じってしまうと、ものごとは難しくなるということだ。 また、発明や物の生産ということが社会を発展させるのも真であるのだが、もはや虚栄心としかいいようがないような物までほしがるようになると、やはり難しくなるということだろう。
「草枕」は、このあと、漱石が好みとするところの詩や絵画などの芸術世界観が、主人公である画家の言葉として、次々と語られていく。
また、複数の大人が登場してくるが、あくまでも画家の視覚が捉えたものや、画家に巻き起こる内的情感の描写が主であることが作品の特徴である。 いうなれば、この作品で漱石はひとりの画家になりきっていて、もしくはそうであることに意識上で徹底しているのである。
はじめて「草枕」を読んだのは、小学校の高学年くらいだった。 語られている絵画作品の大半は、まだ観ていなかったが、文芸作品の雰囲気や語られていく世界観には、理解できる範囲での同意、そして憧れといったものを抱いた。
もともと「我輩は猫である」や「坊ちゃん」など、物語として面白いもののほうから読み進めていったのだが、「草枕」まで来たとき、漱石がどうなのかは別として、この作品で漱石は、ほんとうにありたい世界のことを描いているのだなということは分かった。 いうなれば、なにか「居場所」のようなことが、根底的なテーマなのかなと感じられた。
小学生のいつごろから、耳に入ってくるようになったのかは定かではないのだが、世の中で流行っていた歌謡曲に、ちあきなおみの「喝采」があった。 ドレミファソラシドの、ファの音と、シの音を使わない、「ヨナ抜き音階」で作曲されたポップ・ミュージックだ。
今聴くと、まさに昭和歌謡の代表として響いてくるところだが、同時代的に耳にしていたときでさえ、ややノスタルジックな曲であると感じられた。 時代は右肩上がりの連続であったので、その心的反動としての懐古趣味のニュアンスが、ひとびとのこころを捉えていたのではないかと思われる。
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中村泰士(1939-)作曲
吉田旺(1941-)作詞
ちあきなおみ(1947-) 「喝采」
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ドラマチック歌謡とも呼ばれたこの曲、ギターのトレモロも印象的だが、ベースラインとストリングスの絡み合いもすばらしく、そこにちあきなおみの歌が融合していくという、良く練られた名曲だ。
さて、曲を聴いていて気が付かれた方もおられると思うが、ポップ・ミュージックは愛や恋、あるいは希望などをテーマに歌われるのが一般的で、この曲も恋愛がテーマなのだが、その歌われる恋が、歌い手の立場からのものであるということだ。
先の「草枕」は、ひとりの画家なりきりで書かれていたが、こちらの「喝采」では、曲の作り手は、ひとりの歌手になりきっていて、もしくはそうであることに意識上で徹底して曲を作ったのである。
中学生になると、俄然としてクラシック音楽を聴くようになった。 聴くもの聴くものが、内的世界の豊かな糧になっていくようであり、おおむねはじめの2年間で、名曲300曲くらいを、丁寧に、そして熱意を持って聴いたと思う。
そんな中でも、今回お話してきた「草枕」にも通じるような感覚、つまり主体が捉えたものであるとか、主体に巻き起こる内的情感が描写されていることが、かなり明確な形で提示されていて、そして、「喝采」のように、おそらくは同時代的にありながらもやや懐古的で、かつ、極めてドラマチックなものに仕上がっているものとして、強く記憶されているのが、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番だ。
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ピョートル・チャイコフスキー(1840-1893)作曲
ピアノ協奏曲 第1番 変ロ短調 作品23
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1874-75年作曲 1879年および1888年改定
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山路を登りながら、こう考えた。 智に働けば角が立つ。 情に棹させば流される。 意地を通せば窮屈だ。
もしもそういうことなのであるのならば、それではかくありたいという世界は、自分が創ってやろうじゃないかという意欲が、チャイコフスキーの楽曲からは感じられる。 これは、「居場所」ということと、関連があるのだと思う。
ピアノ協奏曲第1番を聴いていると、内的な高揚が巻き起こるが、そのときわたしたちは確かな「居場所」を得ているのだ。 それも、とびきり居心地の良い居場所をである。
さて、そのように音楽でもって居心地の良さを創造したチャイコフスキーであるが、20代の半ばのころ自身の弟に、人生のアドバイスとして書き送った手紙がある。 要約すると、次のような内容だ。 現代のわたしたちにとっても、人の世を居心地良くしてくれそうな話だ。
@ 仕事を、あとまで延ばすというような怠けごころを、避けること
A 非常にたくさん、読書すること
B 自分に関しては、できるだけ控え目になること
C 気に入られようとか、ひとを魅了しようという欲求で、夢中にならないこと
D 成績が悪くてもあわてないこと --- そんなものは、実社会に出てからぶつかることに比べたら、まったく問題にならないのだから
E 大切なのは、自分のことをあれこれと考えず、ふつうの人間の運命に甘んじる覚悟をすることだ
ところで、漱石はひとりの画家になりきって「草枕」を書いたということであった。 そして、ひとりの歌手になりきって「喝采」が作られたということであった。
それならば、チャイコフスキーも、ピアノ協奏曲第1番を、なにかになりっきて作ったといういうことなのだろうか?
うーん、そう、これはピアニストになりきりで作っている。 作曲家チャイコフスキーは、ピアノが弾けたが、それもとびきりのピアニストになりきって、もしくは、意識上でそのように徹底して、曲を作っているのである。
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(C)
柳澤 徹 多摩川 2013・11 #1 写真
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● さあ、世界中のみなさん。 代表選手になりきって、2月を楽しもう! そして、最後には、幸せと平和な気持ちになりますように。
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