古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第215話 2010/09/13公開 |
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■ わたしたちが、今、過ごしている時や、時代が、いかなるものであるか?
目で見た変化や、体感したことを通して、ひとの意識が、それがいかなるものであるかということを、捉えていくことになるだろうことには、多くの方が同意されることと思う。
今から、1年前のことを、思い出してみよう。 あなたが、そのとき意識で捉えていた時代と、今とでは、同じところが多いものの、やっぱり異なるところがあるのではないだろうか? では、2年前を、思い出してみよう。 異なるところが、やや増えただろうか? 次に、5年前のことを考え、そして、次に、10年前のことを思い出してみたなら、もはや隔絶たるものがあるようにさえ、思えてくるかもしれない。
この一文には、一種の普遍性がある。 あなたが、いつの時代に、これを目にしたとしても、あてはまることだろう。
さて、目で見た変化や、体感したことなどを通して、ひとの意識というものが、今、過ごしている時や、時代が、いかなるものであるかを、捉えていくということであるならば、このプロセスには、少なからずあるものが、介在している。 「感情」である。
それゆえ、ひとびとが、ある時代を差して形容する際には、しばしば、「良い時代」とか、「きびしい時代」など、ひとの感情に由来する形容詞が付くことになるのである。
自分のすべきことや人生を、既に限定してしまっていたり、変化をあまりにも望まないと、きっと、「良い時代」、「きびしい時代」の両者の前には、「すごく」という形容詞が付くことになると思われる。 それゆえ、わたしたちは、むしろ「チェンジリーダー」であるべきなのだと思う。
「チェンジリーダー」は、時代を、「良い」とか「きびしい」と形容しているだけでは、不足である。 今、過ごしている時代が、わたしたち人類の歴史の展開上、いかなる過程であるのかという視点で、捉えていくことが、「チェンジリーダー」にとっては大事だ。
さて、それは良いことであったことも、そうでないこともあったであろうが、世界史に刻まれている出来事の多くは、ある日突然、降って湧いたように起きたわけではなかった。
「ローマは1日にして成らず」とも言うように、それに至るまでには、上述のような意識の変化を含めて、かなりの長い期間の経過があった。
それが、たとえば科学技術による画期的な発明品による場合、19世紀初頭に発明された蒸気機関車、20世紀半ばに発明されたコンピュータなどの場合を見てみると、世界的な変革に至るまでに、おおむね半世紀の経過期間があった。 他の出来事でも、そのような長い期間の経過ののちに起きていることが、多々あると思う。
そうした、半世紀にも及ぶような、長い期間に渡たる変化においては、変化の始点から6割がたが過ぎたあたりで、その変化の波を、可視化させたり、顕在化させたりするようなことがらが、しばしばあるものである。
それらのことがらは、注目されて話題になるものの、その後の大変革へと至るまでには、さらにまだ4割がた、つまり半世紀の4割で20年の時間があり、また、「ひとの噂も75日」とも言われるところにより、世間の関心は、次第に薄らいでいく。
また、それらのことがらは、大変革へと至り、総括が成されたときに、その重要性について言及されたり、位置づけが成されることが多く、ことがら自体は同じであるにも係わらず、同時代的に思われている価値よりも、総括時に思われる価値のほうが、遥かに高い。
そのようなことがらは、大変革が起きた中心地や大舞台でではなく、むしろ、周辺や辺境で生じる。 その一方で、ことがらによっては、周辺や辺境からやって来たものによって、もたらされるということもある。
このことには、一種の普遍性がある。 あなたがどの時代に、これを目にするかによって、なにを想像するかは、変わってくるだろうが、なにを想像するかは、ここではあまり重要ではない。
大事なこととは、大変革など夢のまた夢であったり、自分がいるところが大舞台とはほど遠くても、問題ではないということである。 チェンジリーダーにとって、変化を起こすときとは、今であり、あなたがいるところが、変革の舞台であり、中心地なのである。
そのようなことがらとは、様々な分野において存在しているが、エポック・メイキング的な性格があり、それそれの分野において多くは、名誉なことだとされる。
世界の各地には、そうした輩出をした栄誉に浴する地域が、幾多とあることだろう。 あなたのおられる地域にも、そのようなことがらがあるのではないだろうか? 万一、なにも思いつかないかたがおられたならば、これを好機と捉えて、次の休日は、郷土博物館、もしくは国立博物館を訪ねてみては、いかがだろうか?
さて、芸術の分野においては、19世紀後半から20世紀初頭に、中央ヨーロッパのチェコが輩出した独特さには、かなり印象深いものがある。
20世紀の幕開け前後の10年に、パリの街の美を彩り、アール・ヌーヴォーの旗手として活躍したのは、チェコからやってきた、アルフォンス・ミュシャ(1860-1939)だ。 多くの曲線で満たされた、ミュシャが描いたエレガントなポスターは、手の込んだ複雑な造りであるのにも係わらず、ものの粋を極めて単純化したような、明瞭な印象を持つ。
ポスターは、壁面や柱などに掲示する、視覚的なメディアであるが、1930年代にひとつの全盛を迎えたという。 ミュシャの活躍からは、おおむね20年くらい後のことだ。
音楽においては、アントニン・ドヴォルザークが、ひと際、印象深い。
ドヴォルザークは、1841年に、北ボヘミアに生まれた。 1840年代の後半には、ヴァイオリンを弾くなどし、1850年代に、音楽の専門教育を受け、1860年代は、オーケストラのヴィオラ奏者として活動。 このころから作曲を行うが、本格的な作曲活動は、1870年代以降となる。
1880年代には、作曲家として、ヨーロッパにおいて国際的に活躍し、1890年代には、ニューヨーク・ナショナル音楽院の院長として、アメリカに招かれた。
ドヴォルザークが招かれたころのアメリカでは、潤沢な資金で、メトロポリタン・オペラ、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団、ボストン交響楽団など、高い水準の演奏が行われていたが、作曲の分野においては、新興国であったという。
それを発展させるものとして、芸術家ドヴォルザークが、期待されたのであった。
交響曲 第9番。
ドヴォルザークと、同い年であったグスタフ・マーラー(1860-1911)でなくても、9番目のシンフォニーを創るにあたっては、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)の第九交響曲(1815-1824)を意識するのではないかと思われるが、ドヴォルザークの第9番は、古くは楽譜の出版順に第5番と呼ばれていたことにも表れているのか、作曲上の明確な関連性はないようだ。
ドヴォルザークの交響曲 第9番は、アメリカに招かれた年のすぐ翌年に作曲されており、新たに得た感性からの触発が見られると共に、明確なイメージがいだかれていて、創作のノリが実に良い。 4つの楽章で構成されているが、それぞれの楽章の完成度が、たいへん高く、それぞれをひとつひとつの曲として鑑賞したとしても、遜色がない。 そして、ドヴォルザークの、もっとも良く知られた交響曲である。
多くのひとにとっても、既知の交響曲であり、そのメロディでもって、覚えられてもいるところであるが、それをいったん白紙にしたような気持ちで、曲に向きあってみると、ドヴォルザークという音楽家が、いかに、先人が成したすばらしきものに、敬意をいだきつつ、まるで食べたものが、正しく骨身になるように、咀嚼(そしゃく)を実行したひとであることが分かってくる。
先に、この交響曲がベートーヴェンの第九と明確な関連性はない旨は述べたが、ベートーヴェンは既に、ドヴォルザークの正しき骨身となっていたのであった。 そして、先達であり同時代人であった、リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)と、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)も、正しき骨身になっている。
歴史を俯瞰したとき、特に19世紀にその名曲が多く創られた音楽の種類がある。 標題音楽だ。
標題音楽とは、音楽外の、想念や心象風景などを、鑑賞者に想起させることを意図して、情景や雰囲気や気分といったものを描写して創る音楽である。
代表的存在としては、エクトル・ベルリオーズ(1803-1869)の幻想交響曲(1830年)が挙げられるだろう。 また、リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)の作曲活動に至っては、「標題音楽の生涯」ともいうような壮観さがある。
それに対して、音楽外の世界を特に参照しなくても鑑賞できる、もしくは、そのように意図して創る音楽を、絶対音楽という。
ドヴォルザークは、1860年代に、オーケストラでヴィオラ奏者として活動していたが、1866年になると、ベドルジハ・スメタナ(1824-1884)が、指揮者に就任した。 交響詩「モルダウ」を作曲したことで知られ、チェコ国民楽派の開祖と呼ばれるスメタナから、指導を受ける機会を得た。
また、フィンランドでは、ドヴォルザークと同年代であって、交響詩「フィンランディア」を作曲したことで知られ、同国の国民楽派と呼ばれた、ジャン・シベリウス(1865-1953)が活躍していた。
スメタナも、シベリウスも、標題音楽の名手であった。 だが、自分が影響されそうな周囲に、標題音楽がこれだけあっても、ドヴォルザークは、絶対音楽を創ることに、こだわったのであった。
ドヴォルザークの交響曲 第9番も、絶対音楽である。 ここのあたりに、ドヴォルザークの音楽の、グローバル性があるのだと思う。
わたしが通っていた中学校では夕方、下校の時刻になると、ドヴォルザークの交響曲 第9番の第2楽章が、校舎の壁に設置されたラッパ型のスピーカーから、流れていた。
土の湿り気を帯びるようなところがありつつ、なんと温かい曲であろう!
校庭を横切りながら、流れているこの曲を聴くたびに、今日という日には、意味があったように思えた。 そして、明日の希望を、胸にくゆらせた。
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(C)
柳澤 徹 東京港 2010・5 #10 京浜運河 写真
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● 新世界の第2楽章を聴くと、ひとは、ちょっとした充実感と、安堵感をいだくのだと思う。 だから、それが流れている中で、この写真を、何気なく眺めたならば、夕焼けの風景であると、認識するだろう。 それが自然なことであり、あなたになんの落ち度もない。 だが、この写真は、東京港の朝焼けを、撮影したものである。 「エッ、お休みは、させてもらえないの?」 そんな声も、聞こえるかもしれないが、これは、ものごとには、夕焼けだと思っていたら、朝焼けだったということも、あるかもしれないという、終わりかと思っていたら、始まりだったということも、あるかもしれないという、ひとつの示唆なのである。
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