| 古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第214話 2010/05/05公開 |
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■ ひとは、誰でも日々なんらかの行動をし、誰でも時を過ごす。 では、そのなんらかの行動とは、どのようなものに導かれるか?
行動のもっとも多くは、「それが習慣だからそうする」というものであろう。 しかし、習慣であるからとしても、元々は、なにかに導かれはじまったことだと思う。
みんながそうするからという極と、自らがそう思うからという極の、どの辺りであるかは、事象によって振れるだろうが、行動を導くものということを考えたとき、それはじつに多項目があり、それらが複合的に絡み合ったり、強め合ったりしている。 そのことについては、神話や伝承、そして古今東西の文学作品や演劇、哲学においても、じつに多様に語られてきた。 視点を歴史に向けても、史実の中にまた、さまざまを見出すことができるだろう。
理念や理想、信頼や期待、希望や勇気、知性や価値観、権利や義務、正義や善悪、理性や本能、欲望や情動、快楽や節制、損得や賞罰...
これらの項目が複合的に絡み合うのであるから、ひとの行動とは多様なものになるところである。 なお、すべてがそうであるわけではないが、これら項目には、持っている文化や、受けた教育や、築いてきた経験の影響を受ける傾向があるものが見受けられる。
またそれら項目に加えて、例えばお腹が空くなど生き物としての生理的欲求というのもある。 もし、グローバリゼーションの進展ということが、文化や経験の均質化を進めるということであれば、ひとの生き物としての生理的欲求が持つ共通性ということが、ひとびとの行動への関与ついて、相対的にウェイトを持ってくる可能性もある。
(なお、グローバリゼーションの進展ということが、文化や経験の均質化を進めるということであれば、長期的な観点からは、固有の文化や独自の経験、個性的な教育の価値は高まっていくだろう)
さて、これらさまざまな項目が実際に作用したり、ひとの反応を引き起こしたりするためには、自分の外で巻き起っている事象を、ひとが主体として「感覚的に受け取る」というプロセスがある。 今話においては、そこに光を当ててみたいと思う。
そのこころは、冷戦終結後20年の長い世界の波動も、ここ数年の中でひとつの区切り迎えているのではないかという予感と、もしもそうであるならば、次の10年なり20年なりの奔流の根底を流れることになる、つまり、ふつふつとしながら時代を動かしていくような原動力に関わることについて、ささやかながらもなんらかの考察を加えてみることが、空前の景気策実施の次に来た、ペントアップディマンド(抑制されてきた需要)によって、いくばくかの活気というものがでてきた2010年の世界において、有益ではないかと思われるところにある。
ひとが、自分の外で巻き起こる事象を、主体として受け取る感覚は、5つある。
もともとはアリストテレス(BC384-BC322)によって分類されたことに由来し、その後の文化にも引き継がれ現代に至り、「五感(ごかん)」と呼ばれている。 五感とは、わたしたちが生まれたときからお馴染みの感覚、すなわち、視覚(しかく)、聴覚(ちょうかく)、嗅覚(きゅうかく)、味覚(みかく)、触覚(しょっかく)のことである。
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グスタフ・マーラー(1860-1911)作曲 交響曲第7番 |
作曲時期:
1904-1905 |
初演: 1908年9月19日 プラハ マーラー自身の指揮
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団の演奏による
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視覚は、光を物理的な入力とする感覚である。
人間の外界にある対象の、色、形、奥行、質感、運動の様子などを捉えたり、対象の分類に関わる情報を得たり、対象とほかの対象との位置関係などから空間を把握したりすることができる。
この特徴を応用して文字が発明され、広く普及していることから、多岐多様に渡る膨大な量の情報を、視覚から得ることができる。
また、視覚による認識に関わる領域を活用しているのは、絵画である。 訪れたことのない場所の様子を、そこにいるかのように感じさせるものもあれば、描き手の感情や思考、また思想など抽象的な概念を言語を介さず伝達するものもある。 視覚からは、美しいと感じたり、楽しく感じたりなど、喜びや感動を得ることもできる。
視覚による認識に関わる領域を活用しているのは、彫刻もそうであり、写真や映像もそうである。 2010年は3D映像がひと目を集めている。
聴覚は、音波を物理的な入力とする感覚である。
人間の外界にある音の強弱、高低、音色、調子やリズムなどを捉えたり、音の種類に関わる情報を得たり、音のする方向を把握したりすることができる。
この特徴を応用して言語が発明され、広く普及していることから、多岐多様に渡る多大な情報を、聴覚から得ることができる。 言語は音声と共に発達した。
また、聴覚による認識に関わる領域を活用しているのは、音楽である。 音楽は、感情や思考のほか、思想など抽象的な概念を言語を介さず伝達することができるが、歌声でもって言語を使用することも一般的である。 聴覚からは、美しいと感じたり、楽しく感じたりなど、喜びや感動を得ることもできる。
なお、演奏者や楽譜、媒体などを見ることはできるが、音楽自体は見ることはできない。
嗅覚は、空気中の化学物質を受け取ることで生じる感覚である。
人間の外界にある匂いの種類を特定したり、その強弱を認識したりすることができる。 目や耳と同様に、鼻の穴は2つあるが、他の感覚を用いて風向きが特定される場合を除いて、主体が嗅ぎ回らなければ、匂いのする方角を特定するのは困難である。
嗅覚による認識に関わる領域を活用しているものには、料理や香水があり、作り手や使用者の魅力を高める。 料理など後述の味覚と併用される場合など、匂いは「香り」と呼ばれる。 嗅覚からは、喜びやリラックスなどを得ることもでき、アロマテラピーが人気である。
〇〇の匂い、〇〇の香りと聞くと、それがどんな匂いや香りがするのが想像できるほど、ひとにとって、対象とそれがする匂いや香りとの相関関係は強い。 それゆえ嗅覚は、文学の中で効果的に用いられることがある。
味覚は、口にしたものの化学的特性に応じて認識される感覚である。
これまで考察した、視覚、聴覚、嗅覚が、対象とは離れたところから認知する感覚であったのに対して、味覚は、対象に接触することで得られる感覚であるのが特徴的だ。
味覚による認識に関わる領域を活用しているものには、料理があり、前述の嗅覚と併用される。 料理が口の中で舌と接触しなければ味覚は発生しないが、嗅覚が時間をわずかに先行して料理の味を予感する。 その予感と実際の味が、遙かかけ離れていることは少ない。 芸術家は、感動とは予感の的中度合いのことであることを知っているが、それに準じれば、料理を運ぶひと口ひと口には、ひとの感動が潜在しているとも考えられる。
触覚は、体表面に加わる力に応じて認識される感覚である。
前述の味覚と同様、対象と接触することで得られる感覚だ。 ひとが目覚めてのち、次のアクションとして「起き上がる」ということを考えても、上述の視覚・聴覚・嗅覚・味覚は必ずしも必要ではないが、もし触覚を使わないということであれば、「起き上がる」ことも覚つかないことだろう。 つまり、ひとが具体的に、なにか行動をするならば必要になる感覚である。
先に、聴覚にて言語が、視覚にて文字が育まれた旨を記したが、文字を介して言語を使用したい場合、たとえば、紙に鉛筆で文章を書くのにも、触覚は欠かせない。 また、パソコンのキーボードを打つのにも必要だし、触覚がなければ、ツィッターでつぶやくこともできない。
まとめれば、触覚とは、ひと自身の、空間における物質的占有に依存しつつ、もっぱらその界面にて生成される感覚である。
自分の外で巻き起こる事象を、ひとが主体として「感覚的に受け取る」ということに関して、五感を考えてみた。
さて、ところで、わたしたち人類の歴史を振り返ってみたとき、その時代、時代において、熱病にかかったかのごとく、ひとびとが追い、そして進めるものの考え方というものが存在していることに気がつく。
ひとの理性をもってそれを捉えてみれば、「時代の価値観」というべきものであろうが、ひとの無意識領域についても取り込んで捉えたときは、「時代意識」と呼ばれるだろう。 ちなみに、ここでの意識とは、「○○について意識が高い」というときの意識である。
なお、ある時代の「時代意識」とは、のちの時代の常識からすると、一見不可解に思える場合もあるようではあるが、「時代意識」にまで成り得たということは、必然的理由や背景・メカニズムが存在しているので、それを精査・熟考せずに、今の常識からの乖離度合いでのみものを測るならば、ものの一面的な理解に留まるだろうことは、想像に難くはない。 このことから導かれるのは、むしろ、常識とは、移ろい易いものであるという真理である。
理念や理想、信頼や期待、希望や勇気、知性や価値観、権利や義務、正義や善悪、理性や本能、欲望や情動、快楽や節制、損得や賞罰...
さて、ひとが生み出してきた古今東西の芸術作品が、生み出された「時代の価値観」や「時代意識」と、どんな点においても無関係であるということは、まずない。 それどころか、その時代のただ1枚の絵画が、「時代の価値観」や「時代意識」を、ありありと直感的に、伝達することさえあるのである。
このことを、わたしたちは、経験的に知っているのであるが、そこには注目すべき事項も含まれている。 つまり、作品が「時代の価値観」を良く表現しているということであったときには、芸術家は理性を活用して作品を生み出したということになろうが、作品が「時代意識」をも良く表現しているということであるときには、芸術家は、無意識領域を十分に活用して作品を生み出したことになろうことだ。
適切なたとえかは不明ではあるが、あなたが同僚たちとやや深酒をしたとする。 みんなで店を出て、駅から電車に乗ってみると、メンバーのひとりが、いささか眠そうである。 自分は手前のほうの駅で降りるのであるが、このひとは降りるべき駅を乗り過ごしてしまうのではないだろうか?
だが、十中八九そのようなことは起きない。 帰巣本能というものが働くのかは分からないが、たいていの場合、自分の駅を無意識のうちに判別して降車して、家まで無事にたどり着き、あなたの心配は無用のものとなる。
ここで、わたしたちは奇しくも興味深いことに気がつく。 というのは、そのひとが自分の降りるべき駅が分かったのは、乗ったときからの駅の数を数えていたからではなく、自分の外で巻き起こった事象を感知して、それと分かったのであった。 この場合は五感のうち主に、聴覚を使って車内アナウンスを聞き取り、触覚を使って走行中か停車中かを感知したことだろう。
つまり、ひとの五感によって感知された情報の受け手であって、具体的行動を起こすのは、必ずしも意識だけなのではなく、無意識もそうなのである。 このたとえのひとが翌朝、家で目覚めた時点での最後の記憶は、電車の中でみんなに挨拶したことだったかもしれない。
さてここで、18〜19世紀の芸術家で楽聖とも呼ばれる、ベートーヴェン(1770-1827)が作曲した交響曲の、第3番と第7番について考えてみたい。
19世紀の哲学者であり古典文献学者でもある、フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)によれば、音楽家ベートーヴェン自体が、ディオニソス的であるということになるが、1804年完成の交響曲第3番の、率直で、スケール感のある響きを聴けば、アポロン的な面が見え隠れしていると思う。
その第3番の対極的なところにあるのが、1812年作曲の交響曲第7番である。 はじめの1和音を聴くなりその世界が伺えられ、第4楽章まで聴けば確信するように、第7番は、ベートーヴェンのシンフォニーの中でも、もっともディオニソス的である。
先に、お酒のたとえをしたところだが、奇しくもディオニソスとは、ギリシア神話に登場する豊穣とブドウ酒の神である。 ディオニソスは、ローマ神話で言うとことのバッカスで、こちらの名のほうが知られているかもしれない。
けっこう多くのひとが、ベートーヴェンの9つの交響曲の中でも、第7番を最初に好きになったのではないだろうか?
さて、歴史的尺度で見ると、ベートーヴェンからはおおむね1世紀近い芸術家が、グスタフ・マーラーである。 ベートーヴェンの死後、およそ半世紀後に音楽活動を開始している。
マーラーが交響曲の大家であることは、どう考えても疑いようのないところであるが、そのマーラーであっても、同じく交響曲の大家であるベートーヴェンの音楽活動を、さまざまなシチュエーションで意識していたことが知られている。 そこで働いていた感情は、おそらく尊敬なのであると思う。
マーラー(1860-1911)が自分の7番目の交響曲を作曲するにあたって、燦然(さんぜん)とあるベートーヴェンの第7番を意識しなかったということはないと、筆者は思う。
ベートーヴェンの7番の本質が分かるからこそいっそう、それでは自分はどんな風に、音楽または音楽史を前進させ、発展させようかと燃え、その作曲に全身全霊を注いだのだと思う。
その成果は、20世紀の初頭では早すぎるかと思えるほどの、現代感覚を備えたものになった。
マーラー作曲、交響曲第7番。 五感への没入、意識と無意識との彷徨(ほうこう)、そして、理念や理想、信頼や期待、希望や勇気、知性や価値観、権利や義務、正義や善悪、理性や本能、欲望や情動、快楽や節制、損得や賞罰...それら全てがめぐらされる名曲である。
没入と彷徨ののちに、そして迎える第5楽章フィナーレは、わたしたちにこう響いてくる。
人間、ばんざい!
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(C)
柳澤 徹 東京・天王洲 2010・4 #14 『夜の歌』 写真
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● 円弧でもって緩やかに大きくせり上がる、品川埠頭と天王洲を結ぶ橋からの、京浜運河が見せる大スケールの表情は、それ自体が生き物であるかのような親しみを感じさせ、思わずそこに立ち止まるひとに、自らの五感への没入を、静かに促す。
この円弧の橋を支える両方の袂(たもと)は、運河のほうへと大きくせり出していて、両端ともが東京湾へと開いているこの運河の、およそ目には見えない緩やかな潮の流れを、うねりを成させることで可視化している。
ものとものとが複合的に作用しているさまに、ひとは、親しみやリアリティを感じるのだと、夜の歌に浸りながら思った。
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