古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第212話 2009/10/01公開 |
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■ 2002年にノーベル物理学賞を受賞をした小柴昌俊(こしば
まさとし 1926-)教授といえば、現場主義の研究者として知られるが、毎日睡眠を10時間以上も取るという。 なぜそうするのかは伺っていないが、その分、実働時間が短くなるだろうことにも係わらず、また影武者がいるわけでもないのに、ノーベル賞を貰うほどの業績を生み出したのであるから、なんとなくいつも睡眠不足がちのひとから見ると、自分よりがんばっていなさそうなひとがどうしてと、不思議な感じがするだろう。
だが、誰も取り組んだことのない分野であるとか、誰も考えたこともない領域において、とても創造的な仕事をしたのだということを考えたとき、その睡眠時間が長いということに、なにか秘訣があるのではないかと想像するのは、不自然なことでもないだろう。
というのは、いささか心当たりがあるからだ。 もっとも、筆者の場合、睡眠時間が特段に長いというわけではない。
「世界芸術列伝」は、今回をもってして212話目となるのだが、それぞれでどのようなことを語るであるとか、どのようなことから話はじめるのかということについて、少なくはない回数において、驚くべきことに、睡眠中に着想を行い、時によっては、冒頭の一文の推敲まで行っていることがあるのである。
横なって寝ている間に、文章のほうは出来上がっていて、目が覚めたならパソコンに向かい、あとはそれをタイピングするだけ、ということなのであれば、日々、文書作成に励む方々からは、なんとも楽なことであろうかと誤解されそうであるが、ことわざの「果報は寝て待て」の意味が、努力の限りを尽くしてやるべきことをやったなら、その結果のほうは、焦らないでなりゆきに任せにして、ゆっくりと寝て待っているのが望ましいということであるように、ほんとに話を生み出すべきときがくる前には、できる限りの多様で多彩な情報が記憶へとインプットされている必要があり、そのために常日頃より多大なインプットを怠らないことが要求されている。
そしてこれは学者に多いのであるが、のちのち、どうしてそのようなことを考え出せたかについて聞かれると、「誰よりもずっと多くの時間、そのことについて考えていたからさ。」と答えることがあるのと同様、眠っている間も、どんな話を生み出すべきかについて、考え続けるのでなければ、寝ている間に着想を得るというようなことはでき難いように思う。
まあ、これは筆者の想像に過ぎないのであるが、冒頭にお話した小柴教授の場合、寝ても覚めても自分の研究(宇宙ニュートリノの検出)について考え続け、いきおい睡眠が浅くなったゆえに長くなっているのかもしれないし、もしそのような時間の使い方をしているのであるとすれば、短いであろうと思われた実働時間も、睡眠中の稼動時間を合わせると、もしかするとその分野の誰よりも長いのであるかもしれない。
さて、眠りをテーマした音楽は?と聞かれたならば、まず思い浮かぶのは、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)作曲の交響曲
第94番 ト長調 『驚愕』(1791年)だろう。 その第2楽章は、はじめ静かな音楽が演奏されていくのだが、あるところで突然、びっくりするような大音量の和音が現われるのである。 演奏会場で眠るひとを、起こすために書かれたとも言われていることが有名だ。 だが、ここで対象とされている眠りをよく見ると、「居眠り」であるので、今回のお話のテーマとはやや趣きを異にしているようだ。
それでは今回のテーマとはなにかというになろうが、冒頭からのお話の展開から察せられるとおり、睡眠とは、それを個人がどのように活用するかによっては、じつに創造的なものにもなり得るということである。
なんの不思議もない普段からの行いをこのように表現してみると、新鮮ななにかを発見しそうであるが、ひとが睡眠しているという状態を、第三者的存在が客観的に見たならば、主体が移動することを止めてそこに留まり、自らの視覚からの情報を遮断して、意識をほとんど失っている状態ということになるだろう。 だが、心肺をはじめ諸器官は活動を続けているわけで、それを制御している脳も、たとえばパソコンがスリープモードであるというのより、遥かに活動状態にあることであろう。
視覚からの情報を遮断し、意識をほとんど失っているようでありつつも、常にというわけではないが脳の活動も案外アクティブ。 睡眠を、このように表現してみることもできようが、そうであるならば、それはあたかも目を閉じて音楽を聴いてそれに没頭している状態であるかのようでもある。 そんな類似性を、わたしたちに想起させつつ、睡眠中においても、ものを考え続けることができたならば、そのことには創造性があるという様子を、それとなくつまびらかにしてくれている音楽が、グスタフ・マーラー作曲、交響曲
第4番であるように思う。
■ 第1楽章 ゆっくりと、急がずに
- またゆっくりと (Bedachtig, nicht eilen) ト長調
ストップウォッチの秒針が刻むかのような、すばやいテンポで曲ははじまるが、すぐに移行があって、ゆったりとした夢見るような雰囲気になる。 こころからの喜びや期待感が湧き上がるようなチェロやコントラバスの響きなどがある。 おお!これは70年前に作曲されたベルリオーズ(1803-1869)の幻想交響曲(1830年)ではないか! ベルリオーズが好きな方は、マーラーと趣味や感性を共有したように感じて、嬉しい気分になるだろう。
やがて曲は、マーラーらしい多彩な楽器を駆使したオーケストレーションとなるが、途中では、ベートーヴェン(1770-1827)の交響曲第6番『田園』(1807-1808)からのフレーズも現われたりする。 ひとは睡眠中に、記憶の再構成を行うとも聞くところだが、そのプロセスというものが芸術的に表現されたなら、この第1楽章の感じになるのではないかと思われる。
■ 第2楽章 ゆったりとした動きで、荒だてることなく
(In gemachlicher Bewegung, ohne Hast) スケルツォ ハ短調
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グスタフ・マーラー(1860-1911)作曲 交響曲第4番
より 第2楽章 |
作曲時期:
1899-1900 補筆改訂:1901年まで |
初演:
1901年11月25日 ミュンヘン マーラー自身の指揮でカイム管弦楽団(ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の前身)による |
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マーラーの交響曲といえば、オーケストラ編成が大規模であることが「特徴」であるかのように思われるところだが、この交響曲第4番は、比較的小規模なオーケストラ編成で演奏されるように作曲されている。 第2楽章にはその特色がよく表れている。
弦楽器、金管楽器、木管楽器が、揺らめくようでありながら、巧みに交錯して重なり合いながら展開していく様子は幻惑的でもあり、第1楽章に引き続き、睡眠を想起させるものであるが、その複雑さと統合感が、快活に渦巻く様子は、もし睡眠のなにかに例えるなら、脳の活動が活性化して夢を見ている状態であるかのようだ。 たぶんその夢の内容は、活動的なものであることだろう。
■ 第3楽章 平安にみちて
(Ruhevoll, poco adagio) ト長調
チェロが奏で出すゆったりとした調べは、平和の響きである。 その滑らかであり、たゆたゆしい曲の展開は、ぼくとつなオーボエによって乱されるかの予兆を見せるが、曲はそんなオーボエの動機をも流れに吸収し、平和な感情をさらに高める。 第3楽章の演奏時間はおよそ20分。 この交響曲においてもっとも長い楽章であり、作曲者マーラーの肝いりぶりを感じさせるところだが、その平和な曲調は、さまざまな動機を取り込みながら、何度も盛り上がりを見せる。 楽章の終盤の盛り上がりがもっとも大きく、それは繁栄を謳っているかのようである。
この第3楽章単独でも、ノンレム睡眠とレム睡眠を周期的に繰り返すとされる、ひと晩の睡眠を表現しているように思える。 これならば、それはきっと、安眠であることだろう。
■ 第4楽章 きわめて
なごやかに (Sehr behaglich) ト長調 ソプラノ独唱付き
マーラーの交響曲第4番は、交響曲第2番、第3番と合わせて、「角笛(つのぶえ)三部作」と呼ばれることがある。
ルートヴィヒ・アヒム・フォン・アルニムとクレメンス・ブレンターノという人物が、19世紀の初頭に、詩集『子供の不思議な角笛』(1806-1808)を出版した。 それは自分たちが収集した民衆歌謡の詩集であった。 それから80年ののち、それらの詩に基づく歌曲をマーラーが作曲した。 その後10年に渡って、マーラーは3つの交響曲、第2番から第4番までを創ったが、それらに自らの歌曲からのモチーフや歌を組み込んだのだった。
それゆえ、第2番、第3番、第4番を、「角笛三部作」とも呼ぶのであるが、歌曲からの、モチーフや歌の、使い方や意味の持たせ方は、それぞれの交響曲によって異なっているので、「三部作」と言って括るほどの具体的・明示的な構想によって貫かれているわけではない。
先に、この第4番は、マーラーの交響曲としては小規模なオーケストラ編成で演奏されるように作曲されていると述べた。 そのことは、比較的早い時期からの多くの上演に結びついたということだが、曲を鑑賞するわたしたちに直接的に係わるという観点から見ると、この小編成ぶりは「親密な感覚」を生じさせてもいるだろう。 それゆえ、曲にそう表題が付いているわけでもないのだが、睡眠と係わりがあるように感じられるところでもあるだろう。
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グスタフ・マーラー作曲 交響曲第4番
より 第4楽章 |
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交響曲第4番においては、民衆歌謡の詩を基にした歌曲の組み入れは、第4楽章にて行われる。 気分的には、第3楽章を引き継いだ短い前奏のあと、マーラーが1892年に、角笛の詩に基づいて作曲した歌曲「天上の生活」を、ソプラノが優しい歌声で歌う。
そのどこかにあるのかもしれない憧れのような世界が、歌われていく様子は、これから睡眠に入ろうとするひとを、幸福な夢へと誘引していくかのようである。 ひと塊の歌詞が歌われるごとに入る、激しめのリズムの管弦は、雲に穴が開いてしまわないように活性を加えているような感じがある。
この交響曲が、ストップウォッチが秒針が刻むかのようにしてはじまったのに対応しているようにして、振り子時計がボーン、ボーンと鳴るようにして静かにフィナーレになる。
睡眠中においても、ものを考え続けることができたならば、きっとそのことには、創造性がある。
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(C)
柳澤 徹 東京・大崎 2002・5 #5 写真
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● 薄暮に佇んでいたわたしの目の前には、花が一面に咲いていた。 すうっと伸びた茎の先に青い花弁が付いていて、それらが同じくらいの高さで揃っている様子が、絨毯(じゅうたん)であるかのように見えたり、時折さっと吹く風によって、そうは見えなくなったりしていた。 この移ろいの景色の中でも、わたしがここにいて、ものを意識していることは、確からしいことであった。
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