古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第210話 2009/04/02公開 |
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■ 作曲を開始してからその完成に至るまでの年月がもっとも長かったシンフォニーは、ブラームスの第1交響曲だと言われている。
書きあがったのは1876年、ブラームス40代のことであるが、20代前半であった1855年ころより作曲を進めていたらしい。 20年モノのお酒を想起させるような、たっぷりとした熟成期間であることだ。
その全曲に渡る味わい深かさはすばらしい。 構成が実に良く練られていて、推敲がまた良く重ねられていて音楽に無駄というものがないのだ。 全てがそこに必然的に存在する、そう言ったならばこの交響曲の完成度の高さを評したことにもなるだろう... 続き/Page
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ヨハネス・ブラームス(1833-1897)作曲 交響曲第1番
ハ短調 作品68 |
作曲時期:
1855(?)〜1876年 |
初演:
1876年11月4日 カールスルーエ オットー・デッソフ指揮 カールスルーエ宮廷管弦楽団 |
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■ 第1楽章 ウン・ポコ・ソステヌート
- アレグロ ハ短調
小走りをしてやや早まったほどの心拍であるかのティンパニーの連続的な打ち出しと共に、弦楽器の重苦しい響きが、これから展開される音楽がただならぬ緊張感を帯びているだろうことを示唆しつつ曲ははじまる。
しかしそれに続くソロに近い古典派的な管楽器の響きは、必ずしも全てが重しの中にあるのではないことを表している。 だが、それに続く展開では、そうかといってそうそうハレ晴れとはしないことを予兆させる。 実際、緊張感のある重さとゆるやかな平穏とが、どちらかが交互に認識されてくるようにしながら第1楽章は展開していく。
ブラームスが、緻密に、そして通りいっぺんではない変奏の創り込みを成しているため、それぞれの小節は、「妙に」と表現するほどに説得力を持つに至っている。
■ 第2楽章 アンダンテ・ソステヌート ホ長調
雰囲気は一転して、くつろいだものとなる。 だが、たとえば田園風景を想起させることだとか、自然の中でそれと戯れるようであるとかの感触が少ない。 そのことが反って興味深いところで、それに注意を向けていると、わたしたちは、ふとあることに気がついてくる。
バッハ(1685-1750)が活躍した18世紀には、神と作曲家との関係において霊感を得るようにして音楽が生まれてきていたように思える。
また、18世紀から19世紀へ跨いだベートーヴェン(1770-1827)の場合、市民社会や国民国家への歴史の流れを意識下にしながら、自然の中を歩き回りつつロマンを高めて作曲へ結びつけていたように思える。
それゆえ、市民社会のステレオタイプであるような「都会」で生まれ育ったひとが、ベートーヴェンの音楽の鑑賞を通して、「既に」田舎の自然の味わいや喜ばしさを知っていて、初めて訪れたのであってもその自然の地を「懐かしい」などと感じることが、実際に有り得るのである。
ところがこの第1交響曲の第2楽章を聴いていると、ブラームスの着想が必ずしも自然から得られているとは限らないことに、気づいてくるのである。 それでは、どこから着想が得られているのだろうか?
静かに耳を傾けていると、それはブラームスの内面世界からのように思えてくるのだ。
芸術作品とは多かれ少なかれ作者の内面世界が反映されるものであるのだがら、それは当然のことに思えるかもしれないが、ここで特に注目したいのは、ドイツ音楽における「三大B」とも呼ばれる、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスという2世紀に渡る流れにおける、音楽についての着想の内面世界からによるものの度合いは、バッハよりベートーヴェンで増え、さらにベートーヴェンよりブラームスで増えているように思われる点である。
つまり、近世・近代が進行するにつれて、「人間の内面世界に対する関心」が、次第に重みを持っていったであろうことが、「三大B」のバッハ、ベートーヴェン、ブラームスの音楽作品の鑑賞を通して感じられるということなのだ。
■ 第3楽章 ウン・ポコ・アレグレット・エ・グラツィオーソ 変イ長調
愉快な雰囲気を持つ牧歌的な旋律ではじまる。 第1、第2楽章が特定の具象的イメージをほとんど抱かせなかったのに対して、第3楽章では肩の力が抜けましたとでも言うように、自由さのある感情、そう人間的感情が示すさまざまな側面が、堰を切ったように語られているように感じられる。
そしてそのような中でも、ブラームスの作曲に手抜きの文字はなく、豊かな変奏が披露される。
■ 第4楽章 アダージョ ハ短調 -
ピウ・アンダンテ ハ長調 - アレグロ・ノン・トロッポ・マ・コン・ブリオ ハ長調
「有機的」な第3楽章からすると、唐突であると感じられるほどに無機質な響きではじまる。 音の強弱の幅を伴いつつ、やや重たげに曲は展開される。 だがその状態もそれほど長いものではなくティンパニーによる一段の強音のすぐのち曲調が一転する。
それは浮揚するホルンに導かれたものである。
第3楽章にて牧歌的なものが語られてそれがすこしだけ感じられたものの、第2楽章では見えなかった林野など自然からの着想が、ここにて現れる。
それは雨上がりの野原に射したまばゆい太陽光と、湿り気を帯びつつまだひんやりとした大気を表現しているかのように筆者には聴こえる。 もっとも、ひとによってイメージするものが異なるかもしれないが、ここで注目して欲しいのは、イメージされるのが「観念的な」なにかなのではなく、「具象的な」ものであり、その着想は自然であることである。
それゆえわたしたちは、このホルンの導きを耳にするとたちまち、安らぎの予感に包まれるのである。 そして次に、その予感は成就する。
人間の声の音域に無理なく入るほどの音程において、厚い弦楽器がゆったりとした美しく平易な旋律を奏でる。 それは、第1、第2楽章における人間の内面的なせめぎ合いや、第3楽章に現れるさまざまな感情とは異なる、安らぎと開放の響きである。
そのフレーズから生まれる至福感は、この交響曲のはじまりから聴いてきたせめぎ合いなどを、浄化してしまうものである。 だがそれは同時に、せめぎ合いなどが存在したからこそ、至福であることだと、より感じるものでもある。
つまり、この観点からしても、この交響曲において、全てがそこに必然的に存在しているのである。
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(C)
柳澤 徹 長野・軽井沢 2003・11 #5
『ブラームスの主題により見いだされた風景』 写真
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● 11月の軽井沢は、その時分の東京とは異なって、肌に迫ろうものだった。 わたしを含め、避暑を目的に来ているひとはいない。
旧軽井沢の東部を南北に流れる川沿いの道のあたりへ行くと、風情が増して良い。 あとで知ったのだが、「ささやきの小径」と呼ばれているらしい。
雰囲気を感じながら進んでいると、ふと右手方向の視界が開けた。 そこにはすがすがしい木立の間を抜けていく、未舗装の道があった。 そのとき頭の中では、ブラームス1番の至福のフレーズが、川の流れのように響いたのだった。
音楽を通して、わたしは既に、この風景を知っていたのだ。
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