古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第175話 2006/02/24公開 |
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■ 「旅に出よ、そして、はじめに手にしたものを大切にせよ」
夢に出てきた観音さまの このお告げをもとに出発した若者が、道でいきなり転げた拍子に、なぜかしっかりと握り締めたのが稲わら1本。 こんなものが、何の役に立つのかと、不思議に思いながらも、顔のまわりにアブが、ブンブンと飛んでうるさいので、捕まえて結わえつけておいた。
すると、どうしてもそれを、いますぐ欲しいと言うひとが現われた。 若者はあげてしまうが、相手は、平時であったならば出さないだろうほどの手厚いお礼の品をくれる。
弱い供給のもとで、強い需要が発生している この交換プロセスが、次から次へと運良く起きるので、やがて長者になるという民話は、誰もが知っている
『わらしべ長者』だ。
とんとん拍子な お話ではあるが、素朴で明るいインプレッション(印象)や、このストーリーを生んだ社会のほがらかさや、豊かさといったものをも、表現しているように思う。
それでは、このお話、どのあたりの地域で生まれたのだろうか、東?それとも西か? 時代は江戸時代?いやいや平安か? もしそう聞かれたとき、ほとんど具体的なイメージは浮かんでこないのではないだろうか? なぜだろうか?
それは、この民話が、地域性や時代性といったものを超越していて、「普遍性」さえ有しているからである... 続き/Page
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雪の積もった山あいの村の情景を描いた絵画である。 手前の山から平地にかけては、家並みが続く。 掲載の画像の解像度からすると判別は難しいかもしれないが、平地のほうにも、家並みがあり、また、向かい側の山のすそ、そして、平地のずっと奥のほうにもある。 なかなかもって、範囲の大きい村である。 そして、それら建物には、けっこう立派な造りのものも見受けられる。
画面の一番左にあるレンガ造りは、居酒屋である。 かかっている看板によると「鹿亭」というらしい。 その前では、火が燃えているが、ただ焚き火をしているのではない。 豚の丸焼きを作っているのだ。 それを平らげてしまう、夜になってやってくるお客さんの数も、そうとうと推察されるところである。
絵の題名となっている「狩人」は、3人いる。 連れている犬、十数匹と共に、山のほうから帰ってきたところで、平地のほうへと下っていく。
そして、この地域を流れる川から水を引き込んだだろう、堅牢な石橋さえ有する ため池らしきものは、氷結している。 その上では、たくさんのひとたちが何かしているようである。 拡大して観てみよう... 続き/Page
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ピーテル・ブリューゲル (1525-1569) 雪中の狩人 右下部分を拡大
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一番手前のところでは、橇(そり)にひとを乗せ、引っぱって楽しんでいる。 面白そうである。 石橋の向こうの氷の上には、7人いるが、手前側の2人は、コマを回して遊んでいる。
その向こうの5人は、カーリング競技に興じているようだ。 氷上には、複数のストーンがある。
道をはさんで向こうには、またたくさんのひとが集まっていて、氷の上を滑って楽しんでいる。 中には、アイスダンスを楽しむひともいるし、転倒しているひともいれば、また、アイスホッケーに興じている一群もいる。
この素朴な印象を持ち、おおらかで、快活な内容の絵画を描いたのは、16世紀フランドルの画家ピーテル・ブリューゲルである。 精巧な細密描写を行った画家ヤン・ファン・エイク(1390-1441)からのネーデルランド絵画の伝統を引継ぎ、主にアントワープとブリュッセルにて活躍した。
なお、フランドルとは、現在のベルギーの4割くらいを占める地方のことである。 歴史的には、現フランスやオランダの一部も含む地域のことをいい、13世紀に毛織物産業と貿易にて発展して以来、ヨーロッパ経済の中心のひとつである。 現ベルギーの首都ブリュッセルを、「ヨーロッパのへそ(中央部というニュアンス)」と呼んだり、EU欧州連合がその本部を置いているのも、このことに由来する。 英語名はフランダース。
ピーテル・ブリューゲルが生きた16世紀とは、イタリアにて開花したルネサンス運動が、画家・彫刻家
ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564)の大活躍によって最盛期を迎えたころとも重なっており、ブリューゲル自身もイタリアを3年ほどかけて旅行をしている。 しかし、このフランドルの画家が心酔したのは、イタリア・ルネサンス自体よりも、むしろ旅のはじめのころに遭遇したアルプス山脈の風景たちであったという。
ちなみに、このころ日本は戦国時代。 画家ブリューゲルは、武将の織田信長(1534-1582)とは9つ、日本美術の傑作・松林図屏風を描いた画家
長谷川等伯(1539-1610)とは14歳しか離れていない。
さて、ブリューゲルの『雪中の狩人』であるが、かの3人の狩人の収穫は、いかほどだったのだろうか? 描かれているところを観ると...小動物が1匹だけだった模様だ。
しかし、この快活な絵画には、この少なさについて、ことさら強調するような印象はない。 そう、この村には、農業や畜産といったような、冬ではない季節の経済活動にて、みんながそこそこ楽しくやっていけるだけの、豊かさがあるのだ。
氷が張っているならば、そり滑りやスケートをして遊ぼう、カーリングだってやるぞと、余裕である。 狩猟はもはや、食料の獲得のためというよりも、スポーツ感覚でやっているのではないかとも、思えてくる。
画家ブリューゲルは、この絵を『雪中の狩人』と題しながらも、むしろ描かれている社会の快活さや豊かさを、表現していったのだと、筆者は思う。
また、雪で白くなった地面に、シルエット的に描かれたひとびとや風景、このコントラストの感覚と、俯瞰図のような構図感覚には、新鮮さがある。
そこに、時代も場所も特定しないことも多い 民話を聞くような、明るくて素朴な感覚の内容が描き込まれているので、ひょっとすると、19世紀や20世紀に描かれたのではと思ってしまうほど、時代というものを超越するような「普遍性」を、この作品は持っている。
さて、こちらは日本の北海道、阿寒国立公園の中にある「硫黄山」である。 いまから600年ほど前にこの形になったというので、地球が生みだす造形としては、新しいものである。 いまも煙を上げる、標高約500メートルの活火山だ... 続き/Page
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(C) 柳澤 徹 北海道 2004・3 #8
阿寒国立公園 硫黄山 写真
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この山の名前が、「硫黄山」なのは、実際に硫黄が採れたからである。 硫黄はゴムと混ぜると弾性を増すことができる。 肥料や医薬品にも使われる。 いまでは使用されることも少なくなったマッチの材料でもある。 硫黄山では、明治維新以降の殖産興業期から採取するようになった。 一時は、輸出までしていたという。
昭和30年代のモータリゼーション(車社会化)に連れ、公害の防止のため、石油を精製する際には硫黄分を分離するようになった(脱硫という)。 このことで硫黄の類は、石油プラントにおいて、いわば「生産」されるようになったので、火山から採取することは、なくなっていったのだった。
筆者が、硫黄山を訪れた日は、晴れていたものの、風があってとても寒かった。 写真には、積もった雪に滑りそうになりながらも、煙の上がっている辺りへと、進んでいくひとたちが、シルエットで写っているが、あらためて硫黄を採るために、向かっている訳ではなかった。
「ただ、そこに行ってみたいから」、もしくは、「どうしても、観てみたいから」、歩みを進めていたのである。
観光することを目的に、旅するひとがたくさんいる社会は、豊かだ。