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エゴン・シーレ (1890-1918)
Female Nude Lying on Her Stomach (腹ばいの裸婦)
30×46cm 黒チョーク、グワッシュ 1917年
オーストリア表現主義 |
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腹ばいになって、頬杖を突き、手前側に目線を投げる女性が、リアルな実体感を持って、描かれている。
絵を観る誰の目にも、そのように見えるわけだが、なぜ、そのようにすんなりと、認識できるのだろうか?
それでは、その秘密に迫るため、画家が引いた線に、着目してみよう。 それらは、人物の輪郭部分に引かれているわけだが、強い線のところ、そして、弱い線のところがあるのが見えることだろう。
たとえば、腕のひじの部分は、強い線。 二の腕の辺りには、弱い線。 また、脇から腰骨へ至る辺りは、強い線。 足のふとももの先へとは、弱い線が...
実は、この「線描の強弱の効果」が、大きな力を発していて、人物の立体的な形態、そして、採っていたポーズを、わたしたちの目の前に、確かに再現させているのである。
ふむ、そうか、「線の強弱」の法則が分かったならば、よい絵がスラスラ描けそうであるゾヨ... だが、絵画とは、そうは単純なものでもない。 ポーズ、光の方向、描き手からの遠近などにより、対象の「線」のありようは、いつも同様というわけでもないのだ。
そのため、多様な表情をする対象の様子と、そのよさを観察する 「眼」こそが、実際には
より重要で、美を生みだす上で、必要なものなのである。
歴史上よく知られている芸術家の中から挙げたならば、江戸時代の画家、円山応挙(1733-1795)に、その最高レベルの観察眼を、見いだすことができる。
さて、シーレの作品たちを鑑賞していると、真実へと迫る情熱が培った、卓越した技術力、それが、画家が自らに課した美の理想で洗練されながら、その芸術が成長を続けたように感じられる。
世のことでいえば、今から50年くらい前あたりから、意識も符号し、世界の人びとは、シーレに、しばしば魅了されるようになる。 そして、今世紀になっても、広い範囲の人たちを惹きつけてやまない。
それは、わたしたちがひとりの人間としての自分に立ち戻れる機会を得たとき、シーレ芸術に、共感や親しみを感じさせる目線を発見できるから、もしくは、シーレ芸術のほうこそが、それに触れるわたしたちを、人間の部分へと回帰させてくれる機会を、提供しているからなのだろう... Page
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