古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第221話 2012/09/19公開 |
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ベートーヴェン ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲 Ludwig
van Beethoven Konzert fur Klavier, Violine,
Violoncello und Orchester C-dur |
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■ さて、ここで問題です。 次の3つの言葉のいずれにも共通しているのは、誰?
「運命」 「田園」 「英雄」
答えは...そう! ベートーヴェン。
ご存知の通り、「運命」は、ベートーヴェンの第5交響曲に付けられたもの、「田園」は第6交響曲に、そして、「英雄」は第3交響曲に付けられた表題だ。
「運命」と聞いてまずピンときて、「田園」と聞いて確信をし、「英雄」と聞いて自信を深められたという方も、おられるのではないだろうか。
ベートーヴェン、交響曲第5番「運命」。 ジャジャジャジャーン! 誰もが知る、インパクトある第1楽章では、もののことわりというものよりは、むしろなにか、ひとより大きなものが、次々と、波のように押し寄せて圧倒しようとする。
だが、第2楽章で、ひとは、こころの中に英気の炎をともす。 そして、それに滋養を与えながら育成をする。
さあ、第3楽章は行動のときである。 それは頭の高さをも超える草が生い茂る、草原のようなところではじまる。 全体が見渡せることはまったくない。 だが、ひとは、一歩づつを踏みしめながら、前進する。
やがて、その歩みが、延々と続くかと思われたとき、光が差すような予兆と共に、目の前が広く開ける。 輝かしい第4楽章のはじまりだ。 ひとにとっての踏みしめながらの一歩一歩であったのだが、それは同時に、問題克服のひとつひとつであった。 遂に、ひとは、運命をも乗り越えたのであった。
人生を鼓舞し、勇気を注ぎ込んでくれる第5交響曲。 このレコードが1枚あれば、ひとは、大概の困難は克服できそうだ。
ベートーヴェン作曲、交響曲第6番「田園」。 陽光と草のにおい、そよ風と小鳥のさえずり。 美しい田園の風景が、目の前に広がる。 都会で多くの時間を費やすひとが、あこがれる、休日に過ごす田舎での1日が、楽曲で再現されている。
人間界を一旦離れて、自然界に親しむということが、むしろ豊かな人間性を取り戻すということを、みごとな美で体現する第6交響曲。 このレコードが1枚あれば、ひとは、ひとでごった返す人気リゾートに、毎週のように行こうとは、思わないだろう。
ベートーヴェンは、交響曲を全部で9つ創ったが、そのいずれも、それぞれにすばらしい名曲であるが、また、協奏曲もすばらしい。
たとえば、ヴァイオリン協奏曲 ニ長調だ。 それがなにかかは、ひとによって異なるところだが、ひととは真摯にものごとに取り組んでいると、なにかのきっかけと共に、良い仲間を得ることがある。 そういったときの、嬉しく明るい気分を、音楽にしたようなヴァイオリン協奏曲ニ長調は、全曲に渡って友愛に満ちている。
曲の冒頭の、トントントントントンというティンパニーの5連打は、誰かが訪ねてきてノックする音に聞こえるというひともいるくらいだ。 「かのように運命は扉をたたくが、友はこのように扉をノックする」といったところだろうか。
さて、今回、特に注目したいと思う曲は、ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲(さんじゅうきょうそうきょく)だ。
演奏するために、オーケストラのほかに、(誇り高き)ソリストを3人も用意する必要があるなど、今日では演奏されることも少ないのであるが、そのことさえも返って、ほとんど例がない独特な編成が奏でる、聴いたことのないベートーヴェン作品という、特別であり、かつ新鮮なという価値にもなっているだろう。
いつも序曲ばかり聴いていた「フィデリオ」の、「歌劇」本体を鑑賞したような新鮮さにも、状況的にはやや似ているだろうか。
まずは、聴かれてみていただきたい。 たいへんに親しみを感じる、良い曲である。
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ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)作曲
ピアノ、ヴァイオリン、チェロのための三重協奏曲 ハ長調 作品56 |
作曲時期:1803-1804年 |
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穏やかで明るい曲調ではじまる。 優雅ささえ、ときどき垣間見せる展開には思わず、ベートーヴェンと同時代の作曲家で、ヴァイオリンの顎あてを発明したことでも知られるヴァイオリンの名手であって、ベートーヴェンとも親交があった、ルイ・シュポーア(1784-1859)の作品を発見かとも色めくが、曲が転調したところなどを聴くと、これは確かにベートーヴェンの作品だ。
そのベートーヴェンであるが、このとき未だ知りえていないフランツ・シューベルト(1797-1828)のこころが、乗り移ったのではないかと思うほど、温かい思いやりに満ち満ちているのである。
独奏楽器ではじめに登場するのは、チェロであり、まもなくヴァイオリンが加わり、美しい掛け合いとなる。 その実力に互いに敬意をいだきながら、交互に支え盛り立てている様子は、こころよいものである。 そして、この感じこそが、この作品の肝であるということが、直感されてくるのである。
やがて、ピアノが加わり、主旋律を奏でたり、伴奏にまわったりと、三者とオーケストラとの、美しい掛け合いに発展していくのであるが、とにかく、このような編成の協奏曲は、ほとんど例がないため、曲が進むにつれて、新発見のような音楽の響きが、次々と繰り出されてくる。 その新鮮さが、ほんとうにすばらしい。
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(C)
柳澤 徹 東京・大森 2012・9 #1 写真
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● それは運命であったのか、2000年代の終盤に起きたこと。 それについて、頭の高さをも超える草原を、一歩づつを踏みしめるかのようにして、前進してきた世界。
その歩みが、はかばかしいものであったかというと、それほどでもなかったかもしれない。 しかしながら、その一歩ずつは、同時に、問題克服のひとつひとつだったことを、わたしたちは思い出そう。
その歩みがまた、勇ましいものであったかというと、そうでもなかったかもしれない。 むしろ、温かい思いやりのこころで、支え支えられた歩みであったことを、また思い出そう。
そして、今この年、2012年が、どういう意味を持つ年なのかについて思い巡らすと、こんな風に感じるのだ。 草原は、依然として頭の高さを超えていて、全体を見渡すこともできない。 だがしかし、足裏に伝わる地面の感触が、変わってきたのだ。 おそらくは、あとで振り返ってみてあの辺りが、転換点であったと思うだろうと。
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