古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第211話 2009/07/01公開 |
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リヒャルト・シュトラウス 交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』
作品30 |
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■ およそ図書館に行き慣れているひとにとって「検索」といったならば、館内に設置された木製のタンスのようなものの前に立って、幾多とある小さな引き出しのうち、それらしきものを手前に引っ張り出して、中を縦に通っている金属の棒によって貫かれた多数のカードを、指さばき宜しく次々とめくりながら、自分が求めている書物についての情報を探し出すことであった。
1990年代のIT革命において「検索エンジン」が登場してきて、はじめてそれをいじったとき、小さな引き出し付きの図書館の木製タンスがすぐに思い浮かんできて、なるほどと思った。 恐らく「検索エンジン」を開発したひとたちも、かの木製のタンスのイメージからスタートしていたのではなかったろうか。
やがて図書館のIT革命は進展し、木のタンスはいつしか消え、替わりに検索用の専用端末機が設置された。 かがんだり伸びたりしながらの図書カードの指さばきは、キーボードの上における10本の指の動きに替わった。 使い方は簡単で、「検索ワード」を入力してエンターキーを押せば、候補になる書物の情報が一覧形式にてディスプレイに表示される。 キーワード検索ができるなんて、図書カードの時代からは随分な進歩だ。
しかしこの便利な専用端末機も、こんにちでは汎用タイプのパソコンにと替わった。 しかも単に設置されているハードウェアが入れ替わったということだけでない。 インターネットを介して自分のパソコンからも、図書館のデータベースにアクセスできるようになったのだ。 しかもキーワード検索ができるというだけではない。 探し出した書物を自分のパソコンでクリックして、貸し出し予約することまでできるのだ。
これは個人が自分のパソコンを使って行う能動的活動と、図書館に蓄積されている広範囲に渡る膨大な情報との間で、システム上の直接的関係が構築されていることを意味している。 H.G.ウェルズ(1866-1946)の小説『タイム・マシーン』(1896年)に登場する、遥か未来の図書館においても実現されていなかった「知の形態」であることだ。
さて、ひとの好みというものが多種多様であるように、ひとの興味や問題意識も多様なものであることだろう。
図書館へ行けばたくさんのひとが来ているのが分かるが、自分が探し求めている資料をみなが同様に探しているわけではない。 それどころか、今ここでそれに興味を持っているのは自分だけではないかと思うことのほうが、ほとんどである。 みなさんも、そうお感じになられた経験をお持ちではないだろうか?
まあ考えてみれば、努めて静かな環境を整えようとしている図書館の目的は、それぞれのひとが自分独自の思考やセンスを育むことにもあるだろうから、そのように感じるということであれば、その目的は達成されいるということでもあるのかもしれない。
ところでこの一方、図書館において、ある程度の数のひとびとの興味が集中する種類の書物がある。 それが何かというと「話題の新刊本」である。 話題の本であるならばアマゾンに発注すればすぐに手に入るのではあるが、ほかに読まれるのを待っているものが手元にあったりするときなど、図書館のデータベースへアクセスして貸し出し予約をしたりする。
「話題の新刊本」は上巻・下巻の2冊に分かれていることも多く、そんなとき予約するのは上巻から。 話題性があればあるほどに待ち日数は多く、貸し出し予約はキャンセルして、アマゾンで買おうかと思うくらいしびれがきれたころに、「ご用意ができました」とのメールが届いたりする。 図書館へ行って本を受け取って持ち帰り、しばらくののちに読み終わると、下巻を予約する。
すると、上巻を予約したときとはまったく違う現象に、遭遇することになる。 上巻を借りるまでにかかった日数より遥かに短い日数で、下巻の「ご用意ができました」メールが届くのである。
このことがなにを表しているかというと、図書館では上巻に比べて、下巻のほうが数多く用意されているということではない。 上巻を予約するひとは多くても、下巻を予約するひとは少ないことを表している。 ひとの興味とは多様であるものであるから、その理由についてはあれこれ考えないが、上巻・下巻に分かれている書物とは、しばしば下巻のほうが重要で興味深いことが書いてあるので、せっかく上巻を手にする機会を持ちながら、もったいないといえば、もったいないことのようにも思わなくもない。
「♪ジャ ジャ ジャ ジャーン!」
前もったコメントもなく記されたこの擬音語に対して、多くの方はある交響曲の出だし部分を、思い浮かべられたのではないだろうか? そう、ベートーヴェン(1770-1827)の第5交響曲『運命』の冒頭。 あまりにも良く知られているため、音楽が想像されてしまう。 いま頭の中で鳴り響いているだろうか?
「♪ジャ ジャ ジャ ジャーン!」
啓示的であり、極めて印象深い冒頭部分なのであるが、ベートーヴェン、第5交響曲、その全曲を通して聴くのはいいものである。
さて、鬼才映画監督、スタンリー・キューブリック(1928-1999)によって、映画『2001年宇宙の旅』(1968年)の中で、想像性と現実感を併せ持つ斬新な映像のサウンドトラックに使用され、人類の進化という概念を、時間感覚と空間感覚を伴わせて壮大に表現したことによって、ベートーヴェンの『運命』の冒頭と同じくらいに、広く知られることになった音楽といえば、リヒャルト・シュトラウス作曲の交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』である。
ではその有名な、導入部を聴いてみよう。
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リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)作曲
交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』 作品30より 導入部 |
作曲時期:
1896年 |
初演:
1896年11月27日 フランクフルト ムゼウム協会の第4回コンサートにおいて リヒャルト・シュトラウス自身の指揮にて |
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想像性を刺激させられる音楽であることだ。
さて、この交響詩を全曲通して聴いたときの情感、それは深遠でありながらも、時としてだいぶ身近な存在にもなる「知性」と共に、瞑想しながら存分に楽しんで、ずがすがしい気分になって目覚めるといった音楽体験のことであると、すでに理解されている方にとっては、この交響詩の題名は、その音楽体験自体のことを指す「固有名詞」であるかのように認識されておられることだろう。
筆者もそう認識するものであるが、この題名の『ツァラトゥストラはかく語りき』とは、「ツァラトゥストラはこのように言った」という意味である。 ならば、「ツァラトゥストラ、誰?」ということにもなろうが、ツァラトゥストラとは、拝火教(はいかきょう)とも呼ばれるところのゾロアスター教の教祖、ザラスシュトラ(ゾロアスターと同じ)を、ドイツ語読みしたものである。
だが、近現代文明的な知識の感覚に富んでいるこの交響詩と、ゾロアスターとにどのような関係があるのかについては、自動車の「マツダ」が、創業者の名、松田であると共に、ゾロアスター教の神アフラ・マズダー(mazda)でもあるのと同じくらいかもしれない。
というのは、『ツァラトゥストラはかく語りき』とはもともと、この交響詩が作曲される11年前の1885年に、哲学者のフリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)が発表した本のことであり、ニーチェはその中で、自分が当時思索していたことを文学的に表現したのであるが、各章のごとに「ツァラトゥストラはこのように言った」という締めくくりにした。 それはどちらかというと形式であって、ニーチェが当時思索したことと、ゾロアスターの教えとはあまり関係はなかった。
さらには、音楽を創ったリヒャルト・シュトラウスは、ニーチェの思想を具体的に表現しようとしたわけではなく、本の幾つかの部分に選んで、その印象や気分を交響詩に表現したのであった。
100年経った現代で言うならば、仮に誰かがこんにち、『交響詩・ノルウェイの森』を作曲したとして、それは村上春樹(むらかみ
はるき 1949-)の小説『ノルウェイの森』(1987年)の中の場面を幾つか選んで、そこから受けた印象や気分を音楽にしたのであって、物語に登場する人物キャラクターとも、またビートルズの曲『ノルウェーの森』(1965年)とも、ほとんど関係ないものであるというのと、似ていることだろう。
リヒャルト・シュトラウス作曲、交響詩『ツァラトゥストラはかく語りき』は、おおむね30分強の演奏時間を持つが、次に記す9つの、題名の付されたものから成る。 だが、導入部のあとであるなど、幾つかの休止箇所はあるものの、題名の付されたもの同士の多くは、特段の切れ目がなく連続して演奏される。
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■ Opening 導入部
■ Of
the Backworldsmen 現世に背を向けるひとびとについて
■ Of
the Great Longing 大いなる憧れについて
■ Of
Joys and Passions 喜びと情熱について
■ Grave-Song 墓場の歌
■ Of
Science (Von der Wissenschaft) 現象学的な知識体系について
■ The
Convalescent 病気の回復期にあるもの
■ The
Dance Song 舞踏の歌
■ The
Night Wander's Song 夜にさすらうひとの歌 |
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現世に背を向けるひとびととは、どんなひとたちなのか? 大いなる憧れは善か? ひとのほんとの喜びとはなにか? 胸熱き情熱とは? 墓場は冷えるのか? 現象学的な知識体系ならば、柔軟性はあるのか? 病気の回復期にあるものとは、われわれの未来か? 踊ることは好転のきっかけか? 夜にさすらうのは楽しいか?
深遠でありながらも、時としてだいぶ身近な存在にもなる「知性」と共に、たとえばこのようなことを想起しながら存分に楽しむ、わずか30分強の美しい時間とは、わたしたちの生にとって、どれほど価値があるか知れない。
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(C)
柳澤 徹 東京・目黒 2008・2 #3
『回遊式庭園にて永劫回帰を考えた』 写真
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● 江戸時代にもっとも発達した庭園の形式は、池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)である。 文字通り、池やそれに注ぎ込む水源などが配され、周囲や池の中の小島などに路が巡らされる。 現在も各所に健在であるし、近代以降になって造成されたものもある。
アップダウン、左右へのうねり、多種類の樹木や庭石などによって、変化に富んだ造りとなっていて、山郷を想起させるような景色を持つ。 通常、順路が示されていることはなく、右のほうから回るのも、左のほうから回るのも、どの小道を選んで入っていくのも、自分の足と気持ちが趣くまま、風情に応じて、自由に散策して楽しめる。
さて、ある回遊式庭園を訪れるたびに、あなたが好んで選ぶ道順は、いつでも一緒。 道順の組み合わせはもともと幾つもあるのに、何度訪れても同じ選択になるのだ、ということであったとする。 そうなのであればあなたは、そうなるように「宿命」づけられていたということなのだろうか?
その答えは、ノーである。
なぜならどの道順を通って行くかは自由であって、誰にも促されたわけではなかった。 あなたがどの道順を選ぶのかは、まったくあなたの自由であった。 ところが何度訪れても同じ選択をするということなのであれば、回遊式庭園においてあなたは、際立った「自由意志」の境地にあるのだ。
ツァラトゥストラはこのように語った。 |
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