古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第199話 2008/02/08公開 |
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■ 日本の戦国時代において、華々しいとも言えるような大逆転劇が、1560年の桶狭間の戦いである。 駿河の今川義元、総勢2万5千にもおよぶ大軍に、自国を侵攻された尾張の大名、織田信長が、数の上では明らかに劣勢である4千を率いて戦いに臨み、大勝をしたのだ。
当時、武将たちの間で、「能」と並んで好まれていた芸能に、「幸若舞(こうわかまい)」があった。 幸若舞にて、謡い舞われる内容は、武士の、華々しくも哀しいストーリーであった。
信長は、今川との戦いに出陣するに際して、平安時代末期の一ノ谷の合戦における、平敦盛と熊谷直実を主題とした幸若舞 『敦盛(あつもり)』を、決意と共に、謡い舞った。
「人間50年。 下天のうちを比ぶれば、夢まぼろしのごとくなり 」と。
平和には遠く、戦いと混迷の世において、ひとは、しばしば、「決死の覚悟」をすることを、要求されたことであったろう。 だが、その一方、織田信長のように、それを積極的に受け入れることで、危機的であったりする現状を、突破していく人物もいた。
大いなる混迷の世にあって、決定的な変革をもたらし得たひとたちとは、恐らくは、こうしたタイプであったのではなかったろうか?
さて、20世紀の半ば以降、世界規模の大戦を回避し続けている、わたしたち人類である。 経済のブロック化を起こさず、自由貿易の推進傾向を持ち続けるならば、これからも大戦は回避し続けられそうだ。
中でも、日本では、平和が長く続いてきた。 この平和というものを基盤とし、自由貿易の恩恵を受けつつ、国民皆保険、医療の進歩、個々人の健康意識の高まり、ヘルスケア・サービス産業の発展などにより、平均寿命が著しく延びた。
それに伴って、短命のリスクを回避するための、死亡保障型の生命保険に、ひとびとは興味を失いつつあり、そして、社会保障制度の設計において想定されていたよりも、「長生きをするリスク」に備えるために、ひとびとは医療保険や、長期継続タイプの投資に興味を持ったりしている。
桶狭間の直前に、信長が謡った「人間50年」とは、別世界だ。
ところで、未来を事前に知ることは、物理的に困難であることから、人間が送っている人生とは、その初期段階において、想像していたものとは、往々にして、どこか異なるものであるのではないだろうか?
「いや、私は、はじめに思った通りの人生を送っている」。 中には、そうおっしゃる方もおられるかもしれない。 だが、20年後、30年後にも、そう言い切れるだろうか?
この問いに、不安を感じる方もおられるかもしれない。 未来は、知り得ないものなので、当然のことだ。
だが、準備や助走といったものを、丹念に、そして着々と進めたならば、のちに順次開放されていくことになる、人間が持つ潜在能力とは、いかにすばらしいものであるかということを、思い出して欲しい。
この点に注目することができたなら、不安を感じるどころか、積極的な気持ちで包まれ、むしろ、今すぐにでもやるべき多くのことが、浮上してきたりするのではないだろうか?
このことでの成功事例は、幾多とあろうことだが、日本の画家にも、その体現者を求めることができる。
江戸時代中期の画家、尾形光琳である。
尾形は、1658年、京都の呉服商の2男として生まれた。 呉服商と言えば、当時のファッションの先端で仕事をしていた事業体である。 そのような雰囲気において、能、文芸、茶道、書道に親しみつつ育った。 絵については、狩野派の画法を学んだが、たしなみといった風であったという。
35歳ごろになると、自らの活動について、「光琳」と通称するようになった。 だが、ブーストがかかるのは、それより後のこと、40代になってからのことだ。 本格的に、画業に身を入れはじめたのだ。
そして、大画面の屏風のほか、扇などの小物や蒔絵、手書きの小袖、さらには、弟の尾形乾山(おがた けんざん 1663-1743)の陶器への絵付けと、幅ひろく生活芸術に、その潜在能力を開花させたのだった。
その成果が、日本の絵画、工芸、デザイン、そして、明治維新後の海外の芸術に与えた影響は、計り知れない... 続き/Page
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尾形光琳 (おがた こうりん 1658-1716)
『紅白梅図屏風(こうはくばいずびょうぶ)』
紙本金地著色 二曲一双 各隻 156×172cm
光琳晩年の作 国宝 MOA美術館所蔵
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これは、尾形光琳が晩年に制作した作品、『紅白梅図屏風』である。 左右2曲を合わせると、長さが3.4メートルにも及ぶ、大画面の屏風である。
画面に描かれたものと、余白としての金地が、よく響きあう、バランス感覚に秀でた立派な作品だ。
右側には、紅い梅の木が、左側には、白い梅の木が描かれている。 両方の木とも、美的な方向への抽象化が施されているものの、幹の質感のある重厚な表現など、写実性も高いものである。
右側の画面内において、地面から生え、紅い花を咲かしている梅の木は、若木である。 しっかりとした幹からは、素直な感じで、天空方向へ枝が生えている。 その伸びやかさは、すがすがしいと感じるほどである。
左側の画面内において、地面から生え、白い花を咲かしている梅の木は、老木である。 歳月を重ねて太くなった幹は、画面の外側へと一旦出て、その枝の一部が、絵の上方から、再び入ってきている。
木の全容は敢えて描かないでおき、鑑賞者の想像力に任せる。 日本の絵画・芸術に存在した、実に独特で、知的な表現だ。 明治になってから、日本美術を知った近代の西洋が、さぞ驚いた表現であったことだろう。
また、上方から再び画面に入ってきている白梅の枝の写実性には、尾形光琳という画家の、確かな観察力、そして思慮深さが感じられる。
植物は、種から芽が出た時分より、地球の重力を知り、木の枝は、重力とは反対の方向へと、伸びようとする。 この枝も、右側に描かれた紅梅の枝のように、はじめは天空方向へと伸びていたことだろう。
だが、年月を経て成長するにつれ、自らの重みによって、じわりと下向きとなり、画面に再突入してきているのだ。
ここで、この枝をよく見れば、いよいよ地面に着こうとする辺りから、新たに生えてきた部分は、再び天空の方向へと、しなやかに、そして強靭に、伸びている。 白梅の枝は、幹が朽ち折れるに至るまで、新たな成長というものを、続けるのである。
さて、左右の屏風にまたがいつつ、中央部に大きく描かれているのは、紅白の梅の木のそばを流れる川である。 わたしたちの近くを流れている部分は広く、遠くのほうの流れは狭くと、遠近法が用いられて描かれている。
装飾的に描かれた渦巻き模様は、川面の様子を表現している。
そして、この渦巻き模様には、尾形光琳がこの作品に、込めたかった観念を具現化するための、徹底的な意思があることに気が付いたならば、作品をよく観、光琳という人間の表現意図を、とても正確に、理解したことになるだろう。
それは、一見したところ装飾的であるこれら渦巻き模様は、考案したひとつの図案を、繰り返して描いたものではないということである。 描かれたこれらの渦巻きは、まさにそのことを重要視して、具現化しようとしているがごとく、ひとつひとつ微妙に、形状が異なっているのだ!
文芸の世界において、時々用いられる表現方法であるのだが、「川の流れ」と言って、「時の流れ」を暗喩することがある。 また、紅梅が若木、白梅が老木という擬人化。 そして、伸び、成長していく枝...
これらを総合してみれば、光琳の『紅白梅図屏風』とは、「時の流れ」と「人間」、それが重なり合うところである「人生」というものを、ある観念と共に、美術的に視覚化させたものだということが判ってくる。
そして、その観念とは何であるかを示しているのが、川の渦巻き模様が、ひとつひとつ異なっていることなのである。 つまり、その観念とは、鎌倉時代に、鴨長明(かものちょうめい)によって表現された『方丈記』の冒頭に著されたものなのだ。
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ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 |
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川の流れは、途絶えるところがないものだが、いま流れている水は、さっき流れていった水とは、また違う水なのである。 |
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よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 |
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また、川の淀んでいるところなどに、発生する水の泡などを見ていると、あちらのほうで消えたかと思えば、こちらのほうで生じたりして、けっして長い間そのままでいることなどないのである。 |
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尾形光琳の『紅白梅図』は、そう題されてはいるものの、紅白のみごとな梅の木の絵であることに留まらず、川、そして、渦巻き模様が、重要な役目を果たしているのだ。 そして、「常なるものはない。 万物は、変化のプロセスにあるのだ」との観念を、視覚的に、伝え続けているのである。
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(C) 柳澤 徹 北海道 2004・3 #9
『ヤー・チャイカ 私はカモメ』 写真
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北海道の冬に押し寄せた流氷は、見える限りの海を、白く覆い尽くしていた。 船は、無数のそれを、自身が通れる幅にとかき分けながら、進んで行った。 あとには、懐かしささえ感じるような、群青色のオホーツクの海が、通った船の記憶を、さざなみと共に、くゆらせていた。
私はカモメ。 宇宙まで飛んで行き、地球を振り返ったら、こんな感じに見えると、この間、船のひとから聞いた。
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