古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第197話 2007/12/07公開 |
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■ 街の中、建物の中、ひとびとが多く往来する公共空間の壁面に、それぞれが何らかの目的を持ちながら存在している知の産物のひとつ、それが「ポスター」だ。
ほとんどの場合それは、印刷によってできている。 あちらにも、こちらにも、そして遠くの地にも、掲示を可能とすることを考えてのことだ。
また、ほとんどの場合それは、紙でできている。 多くの往来が期待される公共空間で、ケースなどの保護なしで、紙という耐久性のない素材を使用するのは、期間限定で掲示することを、前提としているからだ。
さらに、ほとんどの場合それには、文字が使用されている。 その前を往来すると期待されるひとたちが使用する言語でもってである。
つまり、そこに盛り込まれている絵柄や図柄が、注目を集め思念を発散することに加えて、おおむねその解釈は一通りしかないであろう
「何らかの、具体的で簡潔な情報」を伝達する機能を、ポスターは備えているのである。
これらが、ポスターというものの概要であろうかと思われるが、現代の社会におけるその性質についても触れたい。
都市にある地下道のような場所を、思い浮かべてみよう。 あなたは、自分の目的地へと近づくために、一本の地下道を移動中である。 そこではひとの往来も盛んだ。 視界の左右にある壁面には、色とりどり、さまざまなポスターが掲示されている。
さて、このようなとき、あなたは、どのポスターに注目されるだろうか?
映画好きの方であったならば、ロードショウのポスターがあれば、目が向かうことだろう。 見るなり、ストーリーが面白そうだと思うかもしれない。 またもしかすると、好きな俳優の写真があったから、そのポスターを見たのかもしれない。
旅行好きの方であったなら、旅情に溢れた美しい風景の写真に、目が釘付けとなるかもしれない。 その場所に降り立つ自分の姿が、もし想像されてしまったならば、次の長期休暇は待ち遠しいものになるだろう。
買い物好きの方ならば、新しくできるモールの紹介や、よく行くショップのバザー情報などがあれば、鋭い眼差しでもってスキャンをすることだろう。
住居を物色中の方であれば、マンション完成予想の絵の前で、思わず立ち止まってしまうかもしれない。
そして、美術好きの方であれば、展覧会のポスターによく反応されることだろう。 体は前進しながらも、文楽の人形のように首が、ゆっくりと回るかもしれない。
このほかにも、いろんなケースが考えられそうなところではあるが、すでにこれらに、「ポスターの性質」が良く語られている。
つまり、街を行くそのひとが、自分の生活スタイルの一部であると思うほどに、強く関心を持つことがらについてのポスターが、そこに存在していたときにのみ、目は注がれ、ポスターにある「具体的であって簡潔な情報」は、読み取られることになるのである。
さて、現代社会におけるポスターの性質など、イメージが湧いてこられたことと思うが、美術の歴史を振り返ってみると、「何らかの、具体的であって簡潔な情報」を伝達するという、ポスターの一般的な使命を、充分に、もしくは、とびきりに果たした上に、そのポスター自体が「優れた美術作品」として、喜びをもって、じっくりと鑑賞される対象にまでなることがある。
時代というもので、ある程度の類型化ができるかもしれないものの、ひとの生活スタイルとは、さまざまであるので、優れた鑑賞の対象として賞賛・嗜好されるものとは、多様ではあることだ。
だが、20世紀が幕を開けた前後に世を沸かせたこの2人の作品であれば、ほとんどの方が「優れた美術作品」と認識しておられるのではないだろうか?
パリで活躍したアール・ヌーヴォーの華、アルフォンス・ミュシャ、そして、同じくパリで、ムーラン・ルージュを描いた、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックである。
一方、東洋の日本においても、ポスターの一般的な使命を、超一級に果たした上に、「優れた美術作品」として鑑賞の対象とまでに至るものが、それこそ色々とあるのだが、20世紀の後半に活躍した、あるグラフィックデザイナーの手になったものは、ひと際の印象深さとともに、歴史に記憶されることになるだろう。
作品数は5千点、そのグラフィックデザイナーとは、田中一光(たなか いっこう 1930-2002)である。
先に、ポスターの性質として、「自分の生活スタイルの一部であると思うほどに、強く関心を持つことがらについてのポスターが、そこに存在していたときにのみ、目は注がれる」ことを述べたが、筆者の目に田中のポスターが飛び込んでくるようになったのは、中学生のときであった。
上野の博物館・美術館などで、日本・東洋と西洋の美術に親しむのが、自分の生活スタイルの一部となってきたころと重なる。 学校の美術準備室などにも、しばしば掲示されていた。
田中一光は、奈良の生まれで、子供のころ東大寺や興福寺の境内を遊び場とし、グラフィックデサイナーとなってからの作風は、俵屋宗達(たわらや
そうたつ)、尾形光琳(おがた こうりん)など琳派(りんぱ)の良さを消化しきった上での、新鮮であって力強いものであった。
日本・東洋と西洋において、どのようなすばらいしい美術が存在しているのかが判ってくると、俄然として、田中のポスター/グラフィックデザインに目が行くようになることは、筆者の経験が、図らずも証明している。
天才の仕事であるなと思ったのは、田中が、バルール(色価・しきか)を、完全に理解していて、自由自在に使いこなしていることからであった。
バルール(仏語Valeur 英語Value・バリュー)とは、美術の専門用語で、絵画の画面内における、明るいところ、暗いところの配分感覚のことである。 白と黒のみのモノトーンの絵においても、このバルールを理解しているかどうかによって、出来栄えは大きく変わってくる。
絵の具を用いるほうが、絵画では一般的なものだが、色彩を数多く使うにつれ、バルールは複雑なものになっていく。 事前に良く研究し、身につけてから用いるようにしないと、絵画のバルールの完璧さを得ることは、難しいと思われる。
尾形光琳、フランソワ・ブーシェ、エドゥアール・マネ、ポール・セザンヌら絵画の大家は、バルールの天才であった。 田中のバルールは、尾形光琳から、多くを吸収しているように思われる。
さて、グラフィックデサイナーとしての数多くの優れたポスターを産み出した田中一光であるが、アートディレクション(芸術/美術の監督)の分野においても、その才能を大いに発揮したのだった。
大阪万博・政府1号館の展示設計(1968年)、セゾングループのクリエイティブディレクター就任(1975年)、銀座セゾン劇場のアートディレクター就任(1986年)...
1970年代の終盤ころから1980年代全般にかけて、知的であって内からの力に溢れていて、それこそ幾多のひとびとを惹きつけたのが、セゾングループであった。 何故かは分からないが、自分もずいぶん足を運んだものだと、思い出した方も、けっこうおられるのではないだろうか?
あのときは分からなかったが、今日それが分かった、ということならば、その答えの全てではないかもしれないが、田中一光がアートディレクションを行ったからでもあったことだろう。
また、そんな昔のことは知らないという方も、知らず知らずのうちに、ときどき足を運んでしまう、ある場所があることだろう。 「無印良品」の最初のアートディレクションを行ったのは、田中一光である。
かくして数々の業績について見てきた。 だが、田中が生み出した幾多の作品やアートディレクションとは、ある共通した重要な精神によって貫かれつつ、成立していたことを、見逃してはいけない。 大事なものを、学び損ねたことになってしまう。
それは、田中が奈良という古都に、育まれたからなのかもしれない。 ポスターという、一瞬とまでは言わなくも、極めて短い時間で実現される視覚コミュニケーションの媒体において、その才を花開き得たのも、この精神が備わっていたからかもしれない。
それは、日本の茶の湯が、基盤とする精神でもある。 何も豪奢である必要なはい。 相手のことをおもんばかり、温かで細やかなこころで迎えること、そして、相手の満足とは自身の喜びになるであろうこと、すなわち、「もてなしのこころ」である。
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(C)
柳澤 徹 長野・軽井沢 2003・11 #4
『軽井沢高原文庫にて』 写真
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避暑地としての夏のにぎやかさも過ぎ、まだスキーに適した雪が積もらない頃の軽井沢とは、この地がはじめより持っていたであろう、樺の木や羊歯(シダ)の香りする、すがすがしく落ち着いた情緒を楽しむには、良い時期だと思う。
落ち葉を踏む足音が、静かな木立の中を、ソナーのように巡って行くので、そこ一帯の空間と、自分の意識とが、響き合い、溶けて合って行くかのように感じてくるのだ。
「自然が歓迎している...」 この感覚とは、利休の茶の湯のはじまりにおいても、含まれていたかもしれない。
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