古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第195話 2007/10/05公開 |
|
|
■ 知りたい事柄について検索をして、これだと思えるようなコンテンツが見つかるのは、嬉しいものである。 それはしばしば内容が濃く、マウスに置いた手は、まるで無意識のように、パソコン画面をスクロールしていく。
伝統的な日本の美術の形態に、「絵巻物(えまきもの)」がある。
紙や絹を横方向に長くつなげた画面に、連続的に絵や物語が、描かれているアートである。 単に、「絵巻(えまき)」とも呼ぶが、同じものを指す。
現代のほとんどのひとにとって、絵巻物を直接鑑賞する場所とは、美術館や博物館であろう。 横方向にとても長いケースの中に、巻物が全開状態で展示されているのを、上から覗き込むようにして観る。 絵の場面は、右から左方向へと描かれているので、わたしたちは右の方から始めて、段階的に左の方へと移動しながら、絵巻物を楽しむ。
だが、美術館や博物館が存在しなかった近代以前のひとたちは、どのようにして鑑賞を行っていたのだろうか?
時代劇に登場するような畳敷きの大広間で、絵巻をバーッと全開にして、膝立ちなどをして移動しながら観たかというと、そうではない。 もっと、わたしたちの日常感覚に近いもので、机など平らなところの上で、絵巻を左手に持ち、その手の中で転がすようにして、50〜60cm分ほど広げる。 そして、その場面を観終わったならば、右手の中で巻き込んでいく。 この所作を繰り返しつつ、楽しんだのだ。
こうした様子とは、現代のわたしたちの、インターネット・ブラウザにおける「スクロール」と、なかなか似てはいないだろうか?
ところで、絵巻物というと、平安時代末期に描かれた『源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)』や、同じころから鎌倉時代初期に描かれたと思われる『鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)』が、たいへんに広く知られているところである。 そのことからも、絵巻物の上下幅とは、おおむね30cmくらいであるとのイメージを持たれることと思われるが、実際のところ、そのくらいのものが大方である。
先ほど、近代以前のひとたちが、どのようにして絵巻物を楽しんだのかについて触れたが、このことは同時に、近代に入ってから、その多数的見地からの鑑賞方法が、大きく変化したことを、示唆している。 つまり、美術館や博物館など、文化施設として建設されたものの展示室、すなわち公共的性格を持つ場にて、楽しまれるということに変わったのである。
芸術の受容者が、人間であるということは、普遍的真実である。
だが、受容者が誰であるかとか、どんな集団であるとか、その性格はいかなるものか、そして、「芸術が、まさに受容される現場」がどのようなものであるかとは、その程度の大小については、実にケース・バイ・ケースではあろうものの、芸術を産み出す芸術家の制作の方法やスタイルや思考に、影響を与える。
筆者がこのような点について、思索の腕を伸ばしてみるのは、ある画家の画業の存在があるからだ。 象徴的であることには、その画家は、1868年、明治元年に生まれている。 横山大観(よこやま
たいかん)である。
横山大観の作品を、ごく短く評したならば、「雄大である」ということになろう。 自身の雅号を、大きく観る(make a general
survey)の意の「大観」と定めたところにも、その志向を伺うことができるだろう。
もう少し分析的に評すならば、「もののはじめに、自身が考える雄大な思念・思考があり、それを感情的な共感が充分生成される風に、絵画表現をした」ということにもなろう。
日本画というと伝統的に、「描かれた線が物語る芸術性」が重視される傾向があるが、大観は、絵画作品において、「内なる雄大な情緒」が、最も大事なものと考えていたと思われる。 そして、それを実際に表現するにあたって、線描を抑え気味とした、独特のロマン主義的な画風を創り上げた。 これは後日、「朦朧体(もうろうたい)」とも呼ばれるようになった。
2007年の春は、横山大観(1868-1958)の壮大な大作である『生々流転(せいせいるてん)』が、東京国立近代美術館にて公開になった。
墨で描かれるなどして、彩色を伴わないものを、絵巻物とは呼ばないのが一般的なところではあるが、先般よりお話してきたところの絵巻物の大方が、その上下幅が30cmくらいであったのに対して、大観の絹本墨画
1巻『生々流転』は、上下がその2倍近くの55cmもあるのである。
さらに驚くことには、右のほうから連続的に描画された絵は、その全長が40m近くにも及ぶのであるから、いかに巨大な作品であるかを、ご想像いただけることと思う。
『生々流転』は、1923年開催の、日本美術院再興 第10回展覧会に出品された。 このことからも理解できるのは、「芸術が、受容されると想定される現場」が、巻物の所有者やその関係者等による机の上でのスクロールから、それこそ幾多のひとたちが訪れるであろう展覧会場という公共の場へと、移行したということである。
そして、作者が絵画作品に託くすことになる役割も、その移行を踏まえたものになったことだろうし、歴史の節目、明治元年生まれの横山大観とは、そうしたことを屈託がなく実行したのではないかと、思われるところである。
『生々流転』
深い山奥。 その大気は水分に満ちている。 やがて、その中から一粒の雫が生まれた。
鹿が遊び、桜咲く山の胎内を巡るうちに、雫は川となり、渓谷を流れる。
滝も集めて、山里を潤す。 木こりや馬が渡る桟橋がある。
松の木が限りなく生える山々を、川は流れていく、右へ左へと、うねりながら。
いかだ舟が見える川とも合流して、大河となった。 周囲の土地の様子も、やや緩やかなものになりつつある。
端正な大きな町が見えてきた。 立派な橋が架かっているところを抜けると、川は大海へと注ぎ込んだ。 浜辺では漁師が魚とりをし、沖の巌では、鵜(う)が空を仰ぐ。
沖合いの海面からは、湿り気が満ち上がり、大気は渦を巻いている。 その中からは、竜が、天を目指して昇っていく。
水の一生である。 竜はやがて、雫となる。
|
|
|
(C) 柳澤 徹 東京 2007・5 #1
『洗足池の夜明け』 写真
|
|
|
●
東京の南部、中原街道沿いのやや窪んだ場所に、「洗足池(せんぞくいけ)」がある。
平安時代末期の文献にして、「千束(せんぞく)」という土地名が既に登場しており、周囲の土地の名称は、今も「千束」である。
鎌倉時代の日蓮上人が、この池に立ち寄った折、ほとりで足を洗ったという言い伝えなどの影響で、いつしか大池は、「洗足池」と表記されるようになったという。
幕末には、江戸総攻撃の中止と江戸無血開城を西郷隆盛に直談判するため、西郷と薩摩勢がそのとき駐屯していた池上本門寺へと向かう途中の勝海舟が、洗足池のほとりで休息をした。
勝は、その風光明媚が気に入って、明治維新ののちに、池のほとりにと移り住んだ。 西郷も、その家を訪ねて、勝と歓談したという。
|
|
|