古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第218話 2011/09/26公開 |
|
|
■ 電車から降りて、駅前に出た時、そこが馴染みでなければないほど、その町の印象というものが強く感じられるものだ。 もし、駅前というものを顔に例えるならば、その顔つきとは、駅の数ほどあるだろう。 そして、駅前を行き交うひとびとは、顔の表情だ。
もし、「顔」にバスのロータリーがあれば、それは口である。 ロータリーの大きさ、バスの発着の緩急、そして並んでいるひとたちの様子などは、そのまま、その町の規模、その町のスピード感、そしてその町のなりわいついて、ものを語っているからだ。
それらのバスの1台に、足を踏み入れたとき、あなたは、口からその町の体内のほうへと繰り出す、出発点にいることになる。
訪れるのが、それほどしばしばというほどではなければないほど、旅情を帯びやすことも手伝って、京都の駅前は、好感度が高い。 遠くからの訪問者が多いことを古来から知る京都は、落ち着いた歓迎感を醸しだしているので、旅情の友だちの「期待と不安」のうち、期待のほうがたちまち報われるからであろう。
京都のバスロータリーはかなり大きく、バスは次々と到着し、発進して行く。 乗り降りするひとは、みな遠くからの訪問者なのかというと、案外そうでもない。 これらはすなわち、町の規模はかなりあって、町の活気もなかなかであり、なりわいについては観光に依存かと思いきや、自らが培ってきたものから紡ぎ出すものとの関わりも大きそうであるということだ。
わずかの待ち時間のにち、期待とともにそのうちの1台に乗り込むと、さほど待つこともなくバスは発進する。 車両自体はどこかほかのものと違いはないのだが、車内がどこかくつろいだ感じなのが面白い。 京都の町は、東西方向そして南北方向に広めの通りが碁盤の目状にあるので、発進したバスは駅前ロータリーから出ると、基本的にまっすぐな道を進んでいく。 方向を変えるときは、1回直角に曲がり、またまっすぐな道を進む。 環状道路などで各地が結ばれている東京のような都市での、道とは右へ左へとうねっていくものだという感覚からすると新鮮である。
乗り込んだ1台での目的地が、東山であるならば、その新鮮な驚きが薄れるどころか、次々と車窓に現れる新たな街並みに刺激を受けっぱなしで、降りるのが惜しいくらいのうちに到着する。
今回の訪問先は、三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)である。 かつて修学旅行で訪れた折の印象深さから、いつか再び訪れてじっくりと観たいものだと、多くの方がこころのどこかで思っていることの実現のためである。
同じ東山地区にあっても、そこに着くまでに、街並みなどを楽しみながら、細くて長い上り坂をたどっていく、そうしたこと自体にさえ物語性がある、むしろそれが存在の狙いであるかの、いわばミニ登山のような、迫力ある頂まで用意されている清水寺とは異なり、周囲を囲む塀はあるものの、むしろ街中にこつ然とあるのが三十三間堂である。
では、そうしたたどり着く過程の楽しみに薄く、三十三間堂は物語性も帯びにくいのかというと、そんなことはない。 その中へと入ってからが、すごいのである。 それはあたかもオペラが上演される劇場であるかのごとくであり、次第に現れてくるものと、自らのこころとが照応し合う、時空を超えるような感動体験が、そこに待っているのである。
三十三間堂はその正式名称を、蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)という。 役割的には仏堂である。 半キロ程度離れたところに境内がある妙法院(みょうほういん)が管理している。
三十三間堂は、はじめ、平安時代に広大な離宮の一画に建てられたという。 五重塔なども持つ本格的な寺院であったのだが、創建から80余年が経ったあたりで火災で焼失した。 時は既に鎌倉時代となっていた。
機能ではあるが建築物でもある寺院というものが創建されるということには、背景としてその時代の機運というものが大きくあるものだが、ひとの世代として、3〜4世代分もが経ってから全面焼失だということの場合、過去の機運はすでに消え、むしろそこは未来に向けて先見性のあることに活用されるべきとの考えが立つのが自然であろうかと思う。
しかし、そこにあったものが、手放しがたき愛着や尊敬を集めていて、現時代のひとびとのこころの中に、しっかりと沈着しているのであれば、話は違ってくる。 かくして、寺院のうち、今に続く三十三間堂のみが、17年の月日ののちに、朱塗りの外装と極彩色の内装で再建されたのであった。
三十三間堂が、街中にこつ然とあるようであるのは、このような経緯による。
歴史にもしはないといわれるが、三十三間堂のことを考えると、この言葉の深遠さを感じる。 というのは、焼失という偶然はもともと時を選ばないものだが、その一方の再建という必然はあたかも、時を選んだかのように思えるからだ。
時代が平安から鎌倉へと変わるにつれ、その芸術の傾向も変化する。 平安を概すると時代の関心は「人間関係」に集まっていたように見えるが、鎌倉の概した時代の関心は「人間存在」へと移行したように見える。 文学でいうと、吉田兼好が著した『徒然草』は、人間存在についての鋭い考察が成されている。 鎌倉時代の芸術は、人間というものに肉薄しようという意欲に満ちた作品が多いのだ。 そしてその意欲の結果を、魅力的にしているのは、根底に、人間とは迫るべき価値があって信頼に足るものであるという了解があることである。
これらのことは、鎌倉時代に生み出された彫刻においても、よく当てはまる。 ひとの形をとった写実的な表現は、人間に肉薄する意欲に満ちている。 それは人体の再現に関するこなれた領域の技量、つまりデフォルメや省略などももってして、精神性にまで迫っていくものである。 この精神性とは、現在の喜怒哀楽の感情を表現したものというよりは、ひとが長年進めてきた人生の今の様子、つまり人間存在を表現したものである。
この特質を如実に表している代表的彫刻に、『無著像(むぢゃくぞう)』(1212年)がある。 その写実的な全身像には、まるで魂が打ち込まれているかのごとくであり、無著という人物について事前に知識を持たなかったとしても、その来し方や信念までが感じられる、今そこにそのひとがいると自然と思ってしまうほど、像から人間存在が伝わってくるのである。
この作品を制作したのが、運慶(うんけい、生年不詳-1223)であった。
運慶は、ともに『東大寺南大門・金剛力士像』(1203年)を制作した快慶(かいけい、生没年不詳)らと慶派をなして、大いに彫刻の制作に励んだ。
慶派の康勝(こうしょう、生没年不詳)は、かの印象深い『空也上人像』を制作した。
鎌倉時代は、ひとの形をとった写実彫刻における、日本美術史上のひとつの頂点を築いたのだ。
三十三間堂の「三十三間」とはものの寸法を言っているものであるが、それが呼び名となっているのは、この仏堂の外観上の特徴が寸法にあることを示唆している。 建屋の奥行きもそこそこあるが、横幅のほうは120メートル超と並外れているのである。 そして、そのたいへん長くて広い内部には、数知れぬほどの仏像たちが、整然と立ち並んでいるのである。
平安時代に造られた三十三間堂が焼失したのは、1249年。 運慶は既に亡くなっていたものの、慶派は湛慶(たんけい、1173-1256)に率いられて、やる気満々。 焼失という偶然はもともと時を選ばないものだが、その一方の再建という必然はあたかも、時を選んだかのように思えるのは、この点だ。 際立った凄腕の仏師たちが、待ち構えるかのごとく存在していたからである。
三十三間堂の、横方向に極めて長大な堂内の中央には、高さ3メートル超の本尊、千手観音坐像がある。 湛慶の作である。 本尊の左右方向には、それぞれ50メートルも続くであろう超横長の壇が、手前から奥に行くに従って1段ずつ高くなって連なっている。 この超横長の段の手前には、そこそこ間隔をとりながら二十八部衆像が並んでいる。 遙か離れたところにある左右端には、風神と雷神が配置されている。 二十八部衆像のうち、四天王像4体は本尊の周囲に配置されている。
これだけでも、かなり数の像があって、見ごたえのあるものであるが、さきほど触れた本尊の左右方向にある超横長の階段状の壇の上には、およそひとくらいの大きさの千手観音立像が、右方向に500体という驚くべき数が、そして左方向も同様に500体もが、整然と立ち並んでいるのだ。
東京国立博物館で、それら千手観音立像のうち2体が展示されているのを、像の前左右と時間をかけて観たことがあるが、それぞれの個体から別の種類の感慨を受けるほど、それぞれがすばらしい入魂の造りであった。 それが1千体並んでいるのであるから、三十三間堂に足を踏み入れたのなら、感慨が音を立てない怒涛であるかのように、押し寄せてくるのである。
順路に沿えば端のほうから観始めることになるが、夢の中であるかのごとく足はなかなか進まない。 像とこころとの照応は、二十八部衆像が気分に味をつけてくれながら、上演されていくオペラであるかのごとく、ドラマチックである。 堂の真ん中にある本尊が視界に入ってくるころには、それまでにどのくらいの時間が経ったのかなど、ほとんど気にしなくなっている自分を、発見することになる。
堂内に整然と並ぶこれだけの数の仏像たち、再建にあたっては、慶派のほかにも、凄腕の仏師たちが多数参加して腕を奮った。 いわばひとつの時代総出の成果物であるのだ。
|
|
|
|
(C)
柳澤 徹 三十三間堂 京都 2005・3 #7 写真
|
|
|