古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第186話 2007/01/01公開 |
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文学者
清少納言/随筆 枕草子 春はあけぼの/ころは |
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■ 生き物ならば備わるものの中で、人類が特に抜きん出ているひとつに「学習能力」がある。
ひとは、ある「場」において日々を送るならば、この能力がおのずと働き、「学習効果」が発生する。 そして、場に内在する価値観や基準というものは、ひとの行動や思考の仕方、場合によっては、ものの感じ方にまで、なかなかもって大きな影響を与えるものだ。
そうした「場」の価値観なりが、望みうる最高の完璧さであれば、そのようなことも、あるいはないかもしれないが、時の流れの中において、ひとが集まって形成するものである限り、「場以外」にある事象に対して、「あれのようであったら、いいのになあ」とか、「かくありたいものだなあ」などと、さかんに感心してしまうことが、多少なりとも、あるのではないだろうか。
もし、「多少」どころか、そういうものばかりだ、ということであれば、場にとって創意工夫の発揮どころが、十分に残されていることだろうし、またその一方で、まったくないというのであれば、それはひとに与えられ得る最高レベルに近いような、幸福状態にあるということだろう。
このような、「場以外」の何かに対して、さかんに感心してしまうような意識上の体験を、世間一般的には、「憧れる」という。
もちろん、この「憧れる」という体験は、そのひとの内面において巻き起こる「個人的な」ものである。
だが、もともと「一個人的な」体験であるはずものが、思いもかけなく、あちらのひとにも、そしてこちらのひとにもと、それに接し得た多くのひとたちの内面にて引き起こされて、あたかも集団的現象であるかのように発展する場合もあることは、この世で生を送るひとであれば、経験的にも理解が難くはないだろう。
そうした、いくつもの、場合によっては幾多の場にも渡って、そこにいるそれぞれ個別の個人が、一様にとでもいうように「憧れてしまう」という何かが存在していたとき、その何かには、いわゆる筋が通ったとでもいうべきあるものが、はっきりと内在していることが多いのだが、さて、そのあるものとは何だろうか?
それは、「美意識」と呼ばれているものである。 そこで、今日はひとつ、この「美意識」とは、どのようなものなのかを考えてみたいと思う。
「美意識」とは、ひとの意識の上にて生じるもので、ある何かを、感性的にいって、かなり好ましいと受け入れて、取り込んでいく過程のことであると、本文では定義したい。
そして、この「美意識」には、2つの側面があることが分かっている。
まずそのひとつは、「美意識」が創造される工程のことで、古来より主に、森羅万象の意を受用した個人、後世的には芸術家とも呼ばれることにもなるひとたちが、その形成と生産を担ってきた。
もうひとつは、「美意識」を鑑賞して、受容・共感していく過程のことで、本文の冒頭よりお話してきたことである。
もちろん、「美意識」とは何かひとつだけ、そのようなものがあるわけではなく、それがどういう内容のものであるかは、その世の森羅万象の有りようによって異なってくるので、じつに多種多様で、あまたがあり得る性質のものである。
日常生活などでも見られるもので、生産されて受容されるなり消え入る瞬間的な「美意識」もあれば、ある時期や時代を華やかせて、場合によっては文化・文明を隆盛させるものもあることだろう。 また、長い歳月をも超越して、生き生きとした光明を、放ち続ける「美意識」もある。
さて、長寿ということであれば、鶴と同じで、おおむね千歳。 普遍的ともいうべきひとつの「美意識」を、平安時代のある個人が生産した。 清少納言(せいしょうなごん
966頃〜?)による随筆、『枕草子(まくらのそうし)』である。
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春はあけぼの。 やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 |
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春といったら、夜が明けてくる時間帯が良いです。 あたりがだんだんと白んできて、稜線がはっきりとしてきた山が、やや赤みの感じなところに、紫がかった雲が、細く横のほうへと、たなびいているのは、すばらしいです。 |
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左側が古文である。 右側のほうには、この普遍的ともいえよう清少納言の「美意識」を咀嚼(そしゃく)し、その感性的なものと、気持ちの流れの感覚を尊重した現代語訳を添えてみた。 |
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はじめて読んだという方は、まずおられないと想像するが、これは、『枕草子』の第一段に相当する『春はあけぼの』である。 明るい調子で書かれている、そして、率直で利発な印象のする文章である。 長さは短いものであるが、春の夜明けの好ましい情景が、目の前に広がってくるようである。
おそらくは、多くの方が、ここに描かれたような景色と、そのすがすがしい感覚を、いつだったかは、はっきりとしないけれども、どこかで体験したことがあったようだと、思ったのではないだろうか?
この素直な感じで、鑑賞する側に受容され、共感されていく、そういったものを引き起こしている原動力こそが、清少納言が文章をもってして有形化した「美意識」というものなのである... 続き/Page
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さて、つきは、夏である。
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夏は夜。 月のころはさらなり、闇もなほ、蛍のおほく飛びちがひたる。 また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光て行くもをかし。 雨など降るもをかし。 |
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夏といったら、何といっても、夜です。 月が出ていれば、この上ないですが、仮に闇夜であったとしても、蛍などがたくさん、入り乱れるようにして、飛び交っているのは良いものです。 また、そのようにたくさんではなく、一匹二匹が、見えるか見えないかくらいの光で、飛んでいるのも、趣きがあります。 さてまた、夜の時間に雨が降るのも、快い感じがするものです。 |
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これもまた、いい感じである。 夜の川べりなどで、実際に見たことがある方もおられると思うが、蛍が一匹二匹と、見えるか見えないかくらいの光で、飛んでいく様子など、ほんとうに趣きのあるものである。
つぎは、秋であるが、筆者には、清少納言の筆に、それとなく熱が入っているように感じられるのだが、いかがであろうか?
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秋は夕暮。 夕日のさして山の端いと近うなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛びいそぐさへあわれなり。 まいて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。 日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。 |
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秋といったら、夕暮れどきがいいです。 陽が夕日となって、山の稜線と近づいたころなどは、三羽四羽、二羽三羽と、カラスなどが巣へと急いで帰っていく様子にさえ、しみじみとした情感があります。 まして、あの雁が連なっている様子が、遠くに小さく見えたりするのは、とても好ましい感じがします。 さらに、日がすっかりと沈んでしまったあとに、風の音や、虫の声などが聞こえてくるのは、何ともいい表しがたいほど、すばらしいです。 |
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まったく同感の極みとは、こういうのをいうのかと、思えてくる文章だ。
さて、この段の最後は、冬である。
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冬はつとめて。 雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。 昼になりて、ゆるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。 |
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冬といったら、早朝がいいものです。 雪が降ったりしたときは、いうまでもないですが、霜が白く立っているときや、またそのようでないときも、急いで火をおこして、炭火を持って、いそいそと行ったり来たりするのは、いかにも冬の朝にふさわしい風情で、いいものです。 でも、暖かくなる一方の昼間の時間帯では、火鉢の中で凛としていた炭も、灰が多い状態になってしまって、あまりいい感じではありません。 |
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四季それぞれにおける、好みの時間帯を、清少納言が明るい感性を持ってして、具体的な事象たちを挙げて綴った、『春はあけぼの』の段であった。
こうして共に、清少納言の普遍的とも思える「美意識」の鑑賞を、行ってみたわけであるが、このこと自体を通し、いったい「美意識」というものは、いかなる作用のものであるかの真髄あたりに、接近することができたのであったならば、幸いである。
さて、随筆『枕草子』には、時間帯について綴られた『春はあけぼの』につづく段として、時期的なことについて綴られた『ころは』という段がある。 それをご紹介して、世界芸術列伝
第186話を締めくくることにしたいと思う。
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ころは、正月、三月、四月、五月、七、八、九月、十一、二月、すべてをりにつけつつ、一年ながらをかし。 |
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時期的なことをいうのならば、正月、三月、四月、五月、七、八、九月、十一、二月と、いやつまりは一年を通して、すべての月々が、それぞれの頃合に応じた趣きや、ならではのものがあって、おもしろいのです。 |
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