古今東西を巡る総合芸術表現シリーズ 世界芸術列伝 第173話 2006/01/01公開 |
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■ 書き出しの、印象的な一文は、文学作品の顔である。
聞けば思わず 「まだ名はない」と、誰もが応じてしまうほど知られているのは、明治の文豪、夏目漱石の小説『吾輩は猫である(1905年)』だが、その次くらいに、広くそらんじられてるのは、日本人初のノーベル文学賞受賞作家、昭和の川端康成の、かの名作だろう...
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」
小説は、東京に住む「島村(しまむら)」という 西洋舞踏に関しての研究をする男が、心の滋養のため、上越の温泉町、越後湯沢を、3年ほどに渡って、忘れそうになるほどの不定期に訪れては
すこしく滞在し、見、聞き、そして体験したこととして描かれていく。
スキー場が遠くなくあるこの地を走る上越線が、全線開通したのは、島村と仲となるヒロインの「駒子(こまこ)」が、 その温泉町で働きだしたのちとのこと。 小説『雪国』から読み取るに、時代は、おおむね昭和7(1932)年ごろからの3年といったところか。 およそ70年ほど前となる。
作者の川端は、男の名を 「島村」としたが、表面的な語呂は、どこか「島国/村社会」を暗示させるかのようである。 だが、心理面においては、なかなかもって束縛を、逃れている人物として描かれている。
また、女の「駒子」は、現状の中で、元気に活動して 跳ねるようでもあり、名が体を、素直に表している。
作品は、時間の軸を細やかに前後しながら、しだいに話が見えてくるように書かれているが、随所にちりばめられた情景の描写は、それが短い文節の結合であるにも係わらず、作者の的確な想像力よって、ぞくっと来るくらい美しく、かつ、リアリティがある。
例として、本小説の書き出しに注目すれば、「乗車していた汽車が、狭くて騒々しく 長々としたトンネルを脱した。 窓の向こうの夕景色を見て、自然美の世界、雪国に入ったことを、わたしは知った。」という意味のことを、
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。 夜の底が白くなった」
と、江戸時代にあった 松尾芭蕉の俳句がしばしば発するような
鋭い時間感覚 と、自然の中に住まおうかという日本人独特の情緒と美意識への共感
を持って、ずばりと表現してしまうのである。
ところで、読書が好きで、文庫にしておよそ150ページ弱の小説、『雪国』であれば、1、2時間ほどで鑑賞してしまえる方は、おそらく面白いことにも気が付かれたことだろう。
川端の分身のひとつであろう島村が、終始ほぼ変わらぬ調子であるのに対して、駒子のほうは、章が進んでいくと、微妙に印象が変わっていくことである。 女性が成長していくさまと捉えても、作品鑑賞において
差し障ることもないだろう。 だが、この小説の成り立ちについて知ったならば、会得されてくることがらもある...
川端康成(1899-1972)は、雪国というモチーフを、昭和9(1934)年に、短編「夕景色の鏡」として執筆した。 だが、本人の話によると、掲載する文芸誌の締め切りまでに、モチーフ全てを描ききれなかったので、別の文芸誌に「続き」を書いたという。
だが、いまだ余情は残り、さらなる続きを書いては発表することを続けた。 その創作は、昭和12(1937)年まで4年間にも渡り、最後にそれらを推敲し、書き下ろしも加えて、ひとつの小説
『雪国』ができた。 それは、川端康成、36歳から39歳の間のことであった。
しかしそれでも、作者のこのモチーフに対する想像力は 尽きなかったのだろう、10年後の昭和22(1947)年になって、『雪中火事』、『天の川』という続編を書くところとなり、これらを加えることで、現在わたしたちが目にする文学作品
”雪国”ができあがったのであった。
小説の、特に終盤になって、駒子の印象に変化が感じられ、また、島村の位置づけにさえも、かすかな変容が見られるのは、この時間的な開きのうちの人類の歴史の変化(1940年代前半の流れなど)が、作者の内面に、すこしく影響を与えたからではないかと推察する。
川端によると、『雪国』のようなプロセスにて創った小説は、すくなからずあるという... 続き/Page
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(C) 柳澤 徹 北海道 2004・3 #7
日本最大のカルデラ湖 屈斜路湖(くっしゃろこ) 湖畔への雪道
阿寒国立公園にて 写真
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さて、川端康成は、昭和43(1968)年、69歳のころ、日本人としてはじめてノーベル文学賞を受賞した。
ストックホルムにての授賞式で、『美しい日本の私』と題する講演を行ったことは、良く知られている。
その講演の中で、鎌倉時代の僧侶、明恵上人(みょうえしょうにん 1173-1232)が詠んだ歌を挙げて、話をしている部分がある。 要約を試みたならば、おおむね次のような観となる...
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雲を出でて 我にともなう冬の月 風や身にしむ 雪の冷たさ (明恵上人)
この歌は明恵が山の禅堂に入って、宗教、哲学の思索をする心と、月が微妙に相応じ相交わるのを歌っています。 まことに心やさしい、思いやりの歌です。 雲にはいったり出たりして、禅堂を行き帰りするわが足元を明るくしてくれ、狼の吼え声もこわいと感じさせないでくれる「冬の月」よ、風が身にしみないか、雲が冷たくないか?
これは、自然、そして人間に対する、あたたかく、深い、こまやかな思いやりの歌として、しみじみとやさしい日本人の心の歌です。
ボッティチェリの研究が世界に知られ、古今東西の美術に博識の矢代幸雄博士も、「日本美術の特質」のひとつを、「雪月花の時、最も友を思う。」という詩語に、つづめられるとしています。
雪の美しいのを見るにつけ、月の美しいのを見るにつけ、つまり四季おりおりの美に、自分が触れ目覚めるとき、美にめぐりあう幸いを得たときには、親しい友が切に思われ、このよろこびを共にしたいと願う。 つまり、美の感動が、ひとなつかしい思いやりを、強く誘いだすのです。 この「友」は、広く「人間」ともとれましょう。
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■ 後記 本Webページ、世界芸術列伝
第173話 『小説家 川端康成』を制作するにあたっては、かつて高校生のころに鑑賞した 『雪国』を、あらためて三遍ほど読み返しました。 何度目であっても、そのたびに、芸術に浸たる
楽しい時間を過ごしました。 作品が、日本を代表する美しい文学のひとつと評されることに、まったく異存はありません。 さすが、川端康成であります。 |